スラッジ(SLUDGE)、直訳すると、泥、ぬかるみである。
煩雑な申請、長い待ち時間、何を書けばいいのかよくわからない書類など、摩擦が大きい故に、合理的に行動を阻むものである。ナッジを世間に広げた法学者が本書の著者である。スラッジとナッジは兄弟のような関係なので、まずはナッジの短い歴史をおさらいしよう。
1999年、アムステルダムのスキポール空港は経費削減を目論んでいた。床の清掃費が高くついていた男子トイレに目を付けた。経費削減のためにやったことは、効率性の高い清掃マシンの導入、トイレの部分的な閉鎖ではない。小便器の内側に一匹のハエの絵を描いたのだ。その結果、清掃費の8割を削減、ハエの絵が大成功をもたらした。この成功の裏にあるには、「人は的があると、そこに狙いを定める」と習性であり、それによって小便器から飛び出す小便が減り、清掃費も削減できたいうことだ。小便器にハエのシールを貼るだけでよいのだから、あっという間に世界中に広がった。
その約10年後、スキポール空港での取り組みなどをナッジというコンセプトでまとめた著書『Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness』が出版された。ナッジ(nudge)とは、「ヒジで軽く突く」という意味。科学的分析に基づいて人間の行動を変える戦略のことである。
出版以降、イギリスとアメリカの政治や行政に少なくない影響を与え、2010 年に英国で行動経済学の政策への応用を専門に担当するナッジ・ユニットが設けられた。著者との共著が多い行動経済学者のリチャード・セイラーは、英国ナッジ・ユニットのアドバイザーを務めている。
この動きは世界に広がりオーストラリア、カナダ、オランダなどで同様のナッジ・ユニットの設置が続き、世界銀行、国連、欧州委員会などの国際的な組織でも相次いて設置された。日本では環境省、北海道、岡山県や尼崎市などの地方自治体にナッジ・ユニットがあり、ちょっとしたブームになっている。なお、リチャード・セイラーは2017年にノーベル経済学賞を受賞し、ナッジは知名度と信頼度を得ていった。
いっぽう、ナッジへの批判もある。ナッジは人間の行動を変えるために選択をアーキテクチャ(設計)する。設計された枠内での選択の自由は保障しているが、枠外での欲望の創造や、枠組みそのものを変えることを暗に制限している。また、何をもってよりよい選択とするのか、どのようなプロセスで導くべき選択を決めるのかなど、アーキテクチャを設計する主体に対しての問題も存在する。
もう1人の著者が法学者のキャス・サンスティーンであり、本書の著者である。歴史は前後するが、オバマ政権時の2009年よりホワイトハウスの情報・規制問題局(OIRA)の局長を務め、ナッジを含む行動経済学の知見を用いた政策を実現した。 具体的に行った施策は、米国人の食習慣を変えること、エネルギーの使い方を合理化すること、退職後の貯蓄を増加させることなどだ。2015 年 9 月には、連邦政府機関が計画や規則を策定する際に行動科学を取り入れるべきとする大統領令を発出し、ナッジユニットが形成された。
OIRAは、さまざまな規制のあり方を監視する立場にあるが、もとは1980年に制定された「書類作成負担削減法」に基づいて創設された組織である。中核的なミッションは書類作成の削減であった。ちなみに、本書で紹介されている圧巻の数字データがある。114億時間、アメリカで国民が連邦政府のための書類作成に費やす時間である。日本人の平均労働時間は約1600時間とすると、単純計算で712.5万人(東京都の半分ぐらいの人口)が1年間のずっと書類記入業務を行っているイメージである。
著者はOIRAの所長の任期が終わろうとしているときに、書類作成負担の軽減に取り組みはじめたが、遅きに失し、不十分だった。退任後も継続して書類作成負担のもたらす弊害について学び、成果としてまとめたのが本書である。
改めて、スラッジとは、人々が何かをしようとするときにそれを邪魔立てする、摩擦のようなものである。煩雑な行政への申請手続きや書類作成、補助を受けた後の報告業務、(メールでも百歩譲って郵送でもよさそうなのに)申請のために求められる直接訪問やそのための待ち時間などである。
スラッジの実例として本書で多数紹介されているが、多くはアメリカの事例である。日本人の私たち(の一部)に馴染み深いものとしては、アメリカ留学のビザ申請である。少なくとも4種類の書類の記入、2度にわたる手数料の支払い、たいてい大都市にしかないアメリカ大使館への訪問である。それぞれに正当な目的はあるのだろうが、費用対効果を分析したら、どれだけ有用なのか疑問が残る。なお、スラッジだけが問題ではないことは事前に断っておくが、全世界の留学生に占めるアメリカのシェアは2001年の28%から2019年には21%に低下している。
いっぽう、スラッジを取り除いた好事例として、メルカリの創業者が立ち上げた山田進太郎D&I財団の奨学金があげられるのではないだろうか(日本の事例のため、もちろん本書には紹介されていない)。一般的な奨学金の申請は煩雑な書類が多い、中学生や高校生にとってはそのような申請を行った経験もほとんどなく、負担が大きい。その点、山田財団の申請内容は必要不可欠な個人情報に加えて、200文字の理由を書くだけ、学校推薦も必要なし、というシンプルなものだ。
ナッジの歴史から振り返ってきたということもあり、ナッジとスラッジの違いについて触れておかねばなるまい。よりよい選択へと人を導くことに長けているナッジであるが、よい目的にも悪い目的にも利用できる。同様にスラッジも常に害悪ではなく、歓迎されるときもあり、文脈に左右によって変容する。
スラッジはまだ厳密に定義されていないし、ナッジとの関係性も整理しきれておらず、その時々のコンテキストによって変容する。定義されきっていないコンセプトだからこそ、その揺らぎに面白さがあり、自分なりの発見と結びつける余白がある。なお、ナッジの批判に対する応答は見られない。ナッジを批判することよりも費用対効果の面で解決するべきこと、つまりスラッジがあるということなのだろうか。
ナッジのおさらいから滔々と記し、滑らかな理解に徹したつもりだが、逆に本書を買うためのぬかるみになっていないことを祈ろう。
スラッジだけ読んでも、理解が難しいと思うので、本書に興味を持った際にはナッジの解説書も同時に読んでみることをおすすめする。
著者は幅広い分野で書籍を記している。近接する分野の書籍で面白かった一冊である。書評はこちら。
本書で数多く参照されている書籍。解説はこちら。ちなみに、以下の引用は『スラッジ』の締めの一文である。
時間は人間にとって一番大切な資源だ。より多くの人が、より多くの時間を持てるようにする方法を見つけよう。
便器のハエと同じ1999年に出版された。ナッジを批判的に見る上での必読書