政商という言葉はあるが、国商は聞いたことがない。
政商とは、時の権力と結託して特別な利益を貪る商人のこと。国商はさしずめ国家と一体化した商人といったところか。
だいたい異名というのは、尾鰭のついた評判によって肥大化した虚像に対してつけられるものと相場が決まっている。だが本書を読み進むうちに、国商とは実に鋭く故人の本質を突いた呼称ではないかと思った。
2022年5月25日、葛西敬之が世を去った。享年81。JR東海に長く君臨した大物財界人であるとともに、近年は政界の黒幕としても知られた。安倍晋三の後見人として、憲政史上最長の政権を支え、内閣の主要閣僚から官僚の人事に至るまで助言したとされる。
葛西が支えた安倍も、参議院選挙の投票日を2日後に控えた7月8日、奈良県近鉄大和西大寺駅前で応援演説中に凶弾に斃れた。葛西の死からわずかひと月半後のことだった。
葛西と安倍が世を去った今、権力に空白が生じている。それはとりもなおさず、この10年のあいだ、葛西と安倍のふたりが中心となって、この国を動かしてきたことを意味する。
本書は、葛西敬之の実像に迫ったノンフィクションである。権力との蜜月は菅政権でも変わることはなかったし、岸田政権においても葛西の影響力がちらつく。その実像を知ることは、現代史の裏側を知ることにもつながるはずだ。本書はその期待にじゅうぶんに応えてくれる力作である。
国商の誕生と国鉄の民営化は切り離すことができない。
国鉄改革の最大のテーマは労働問題と累積赤字だった。国鉄労働組合(国労)はピーク時の加入率96%を誇る巨大組織で、産業界全体の春闘を牽引していた。他方、1980年代に入り、積もり積もった国鉄の累積赤字はついに1兆円を超えた。赤字体質を改めるには経営の合理化が必須だが、組合が強すぎて手を出せない。まさに国鉄は瀕死の状態にあった。
葛西は「国鉄改革三人組」の一人と称される。後にJR西日本社長となる井手正敬、JR東日本社長となる松田昌士とともに改革に奔走したためだ。国鉄改革から葛西は多くを学んだ。中曽根内閣の運輸大臣だった三塚博と気脈を通じ政治との関わりができた。一方、分割民営化を発案した第二臨調のメンバーだった瀬島龍三からは戦略家としての知恵を授かった。
国鉄改革とはつまるところ組合潰しである。国労を潰すために葛西らは、国鉄動力車労働組合(動労)の委員長、松崎明と手を結ぶ。松崎は「革マル」創設時の副議長として極左運動を率いた人物である。だが民営化後、葛西が動労切りに動き、松崎との関係が悪化する。
革マル派から脅迫を受けるようになった葛西は、警察や検察のパイプを頼った。ここで警察官僚との関係を築くと、これと見込んだ霞ヶ関の高級官僚たちと懇親を深めていくようになる。第二次安倍政権発足時に、安倍の側近として葛西が官邸に送り込んだのが、警察庁出身の杉田和博であり、経産省出身の今井尚哉だった。葛西の影響力はいつしか官邸の中枢にも及ぶようになった。
一方、企業経営者としての葛西は、ドル箱路線の東海道新幹線を擁するJR東海に総帥として君臨した。葛西流ならぬ「火砕流」と呼ばれた強引な手法で新幹線品川駅を開業させ、のぞみの便数を通勤電車並みに増やし売り上げを伸ばした。葛西がもっとも心血を注いだ事業がリニア新幹線である。アベノミクスにおける成長戦略の目玉にも位置づけられたリニアは、政治と一体化したビジネスだった。
葛西は「国士」と呼ばれることを好んだという。自民党だけでなく、民主党政権でも数々の政府委員を務めた。国の将来を憂い、教育の再生を唱え、安全保障のために政府の宇宙政策にまで関わった。「中国嫌い」を公言し、江沢民が来日した時、山梨のリニア実験線に乗りたいと言われると「技術を盗まれるからダメだ」と断ったという逸話も持つ。
こうした志向は、どのようにして育まれたのか。著者はこれを、明治以来の鉄道省のエリート意識にみる。これは目から鱗の指摘だった。
明治維新以降、欧米列強に対抗するために、政府は殖産興業、富国強兵を唱えた。その中心にあったのが鉄道省だった。現代の感覚では想像するのが難しいが、かつての国鉄のキャリア官僚は、エリート中のエリートだったのだ。国鉄に入社した葛西の国家観も、ここに根ざしていると著者は鋭く指摘する。
事実、葛西が交流をもったのは、有力省庁の高級官僚に限られていたという。定期的に会って意見を聞いていたのは、財務省、外務省、警察庁の官僚だった。旧運輸省の流れを組む国土交通省の役人などは、「国鉄に入れなかった小役人」とバカにしていたという証言もある。
こうした鉄道省由来のエリート意識は、現代においてはひどくアナクロに映る。日本が近代国家としてテイクオフする過程で、鉄道の敷設が大きく貢献したのは事実だが、そんな役割はとうの昔に終わっている。少子高齢化の時代には、自動運転やライドシェアのためにどう社会を設計していくかのほうが大事だ。
「鉄道の夢よ、ふたたび」なのか、超電導リニアの実現は、葛西の悲願だった。JR東海は2016年11月、リニア中央新幹線の建設費として総額3兆円の財政投融資による長期借り入れを申請した。財投は、旧国鉄の赤字を膨らませた元凶とされたにもかかわらず、なぜ葛西はこれを受け入れたのか。そこにはリニアを成長戦略の目玉にしたい安倍政権の意向があったとされるが、著者はもうひとつ、葛西の病気もその理由だったのではないかと推察している。
葛西は間質性肺炎を患い、余命宣告を受けていたという。死を覚悟し、夢の実現を少しでも早めようと財投に手を出したのだろうか。葛西が泉下の人となった今では、真相は永遠にわからない。
国士とは本来、自分のことはそっちのけで、国のことだけを心配する人物をいう。葛西は自らが進める事業や政治への介入が日本の国益になると信じて疑わなかった。だが、当人の願いが本当に正しいのか、疑わしい場面を多々見かけたと著者は述べる。つまりは言行相反である。著者が葛西を国士ではなく国商と呼ぶのは、こうした理由からだ。
当人が国益にかなうと信じていても、内実は時の政権の私利私欲に過ぎないというケースでいえば、NHKへの介入がそれにあたる。よくNHKを国営放送という人がいるが、正しくは公共放送である。NHKを実際に国営化したいのは、菅義偉であり、安倍政権を支えた財界人らだ。受信料を義務化し、政府に都合のいい放送をさせるのが狙いである。葛西はNHKを支配下に置くために会長人事にも介入した。
数々の著作を通して、著者は権力の背後にいる者に目を向けてきた。そこには、虎の威を借り私利を貪る者もいれば、権力者に取り入って保身に走る者もいた。どんなに取り繕っても、権力の前では、その人物の本質が露わになってしまう。権力の本当の恐ろしさはそこかもしれない。
本書はネットでの連載が元になっている。巨大広告主の葛西を批判的に取り上げるのは、週刊誌ですら尻込みしたと聞く。そこに手を差し伸べたのがスローニュースだった。ネットジャーナリズムが発表の場を用意し、取材や編集を出版社がサポートすることで本書は生まれた。
出版社単独では難しいテーマも、ネットとのコラボレーションで突破口を見出せることもある。またネットジャーナリズムにとっても、今後の成否は、本書のような良質なコンテンツを用意できるかどうかにかかっている。本書はノンフィクションの新しいかたちを示す一冊でもある。