自らを「アマゾンおケイ」と呼んだ小川フサノは、軍事アナリストの小川和久氏の母親ではある。二十世紀を駆け抜けた母の豪快で痛快な一生を息子は全力で書き上げた。
1903年、熊本県八代の山林地主の家に生まれたが、ほどなくして実家は没落。13歳で叔父夫婦とともにブラジル移民となった。
叔父の妻と仲違いし、四十男との結婚を嫌い、ピストルを懐に出奔後、サンパウロで邦字新聞の雑用係の職を得る。英文タイプをマスターしタイピストとして採用されると、さらに手に職をつけるためにと習ったのはダンスだ。幸い彼女には才能があった。優秀な教師に習い、ダンスホールの客を相手にできるようになると収入は激増した。このころから“ケイ(桂子)”を名乗り始める。
21歳で帰国。大阪で売れっ子のダンサーとして稼ぎまくった後、横浜でカフェをひらく。これもまた大当たりして金を貯め、さらなる自由を求め上海へ。この地で英文速記とそのための特殊なタイプ技術を学び始めた直後、運命の人と出会う。全身全霊で愛したその人はアメリカ国務省のキャリア外交官であった。
だがこの恋は実らなかった。当時、アメリカのキャリア外交官は白人以外との結婚は認められていない。彼女は身を引いたが、彼は死ぬまで彼女のために手を差し伸べた。
上海で人脈をつくり、宝くじの大当たりで元手を作ったフサノは帰国後、不動産業で大成した。誰の助けも借りずに戦時中も流れの中を泳ぎ切り、当代一の女実業家となる。
和久を生んだのは戦後まもなくで、その時は既に42歳。相手は警察官で身を守ってくれる人だった。
だが戦後の混乱のなかフサノの人生はどん底まで落ちこむ。生活保護を受けるまでとなっても毅然とした姿を最後まで崩すことはなかった。
幼い頃から母に聞かされた話を綿密に調査した結果、壮大な物語が立ち上がり見事な評伝として結実した。(週刊新潮11月3日号)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
終戦後の占領下の沖縄で、与那国島を本拠地に密貿易で荒稼ぎした伝説の首領「ナツコ」の評伝。これもまた痛快で豪快な女傑の物語。