ジャーナリズムの使命は、「人々が本当に知りたいこと」を伝えることである。
それが唯一にして最大の役割といっていいかもしれない。だが「本当に知りたいこと」は隠されていることが多い。国家や権力者にとって知られては困る不都合な事実だからだ。
いま世界でもっとも注目されている調査報道機関が〈ベリングキャット〉である。その成果は驚くべきもので、彼らは国家や権力者が隠していた事実を次々に暴いてきた。ウクライナ戦争でもロシア政府のプロパガンダのカウンターとして目覚ましい活躍をみせている。「猫に鈴をつける」の名前の通り、彼らに目をつけられた権力者たちは、「嘘つき」として満天下に醜態をさらすことになる。
本書は〈ベリングキャット〉の活動の実態を創設者のエリオット・ヒギンズ本人が語ったものだ。翻訳が出ると聞いてから一日千秋の思いで待っていた。待った甲斐があった。本書は時代の最先端からの報告である。とにかく一人でも多くの人に手に取ってほしい一冊だ。
〈ベリングキャット〉が注目されるきっかけになったのは、「マレーシア航空17便撃墜事件」での活躍である。2014年7月17日、乗員乗客298名を乗せアムステルダム空港を飛び立ったマレーシア航空17便が、ウクライナ上空を飛行中に撃墜された。乗員の多くは夏休みをクアラルンプールで過ごそうという家族連れだった。
この事件について私たちはすでに多くの事実を知っている。使用されたのは、ソ連時代に考案された地対空ミサイル〈ブーク〉であること。〈ブーク〉はロシア軍の第53対空旅団によって運ばれ、ウクライナの親ロシア派の反政府勢力が支配する地域から発射されたこと。第53旅団に所属する兵士から幹部将校のプロフィールに至るまで、かなり詳しい事実を手にしている。これらはすべて〈ベリングキャット〉が明らかにしたものだ。
本書では〈ベリングキャット〉がどうやってロシアの嘘を暴いていったかが詳細に語られているが、中には驚く人もいるかもしれない。真相を明らかにするのに彼らが利用したのはオープンソース、すなわちネットで誰もが入手できる公開情報だからだ。
たとえば、著者が確立した手法のひとつが「ジオロケーション法」である。ソーシャルメディアにあげられた動画や画像を仔細にチェックし、そこに映っているものをグーグル・マップと照らし合わせ、撮影場所を特定する手法だ。
著者がこうした手法を見出すきっかけとなったのがシリア内戦だった。戦闘が激化したシリアでは多くのジャーナリストが命を落としている。危険を冒して現地に入ろうというジャーナリストが激減する一方、インターネットにはシリア関連の映像があふれていた。これらを残らずチェックするには膨大な時間が必要だ。「たまたま、ぼくはそういうひま人だった」と著者は語る。
著者は当時30代前半の「よくいるパソコンが趣味の会社員」で、仕事は面白くなかったが、ニュースには関心があった。キッチンテーブルで現地から発信される動画を見ながら、ここはどこだ?映っているのは本物なのか?と疑問を抱いた。夢中で動画をチェックするうちに、中には意図的に発信された嘘も紛れていることに気づいた。情報の真偽を見極めるために著者は試行錯誤を繰り返しながらデジタル時代の新しい調査手法をつくりあげていく。やがてネット上で著者の発信する情報に共感した仲間が集まってきた。こうして〈ベリングキャット〉が誕生した。
だが、彼らを単なる「パソコンおたく」ととらえるのは間違いだ。あるテレビ番組で、〈ベリングキャット〉のことを「プーチンと戦うコンピューターおたく」と訳知り顔で解説しているのを見たことがあるが、せめて本書ぐらい読んでから発言すべきだろう。〈ベリングキャット〉はすでに各国の情報機関や報道機関、ファクトチェック機関、NGOなどと協力関係にある。いまロシアの戦争犯罪が問題になっているが、著者は国際刑事裁判所のテクノロジー顧問委員会のメンバーでもある。もはや彼らはアマチュアではない。
〈ベリングキャット〉は現在、強敵を相手に情報戦争を戦っている。たとえばシリア内戦では、現地で人命救助に尽力するボランティアに対して、「あれは人殺しで臓器狙いの泥棒だ」などとひどい誹謗中傷を浴びせる連中がいた。この手の陰謀論者が言い出した主張は、政府のプロパガンダに使われ、偏った主張を行う非主流のメディアで取り上げられ、それがまた陰謀論者に還流するというプロセスを辿る。こうした情報の生態系を著者は「反・事実コミュニティ」と呼ぶ。
〈ベリングキャット〉のモットーが「特定し、検証し、拡散する」なのに対し、「反・事実コミュニティ」のそれは「信じ、力説し、無視する」である。彼らの結論は最初から決まっていて、検証はすっ飛ばし、結論だけを声高に言い立て、都合の悪い事実を突きつけられても無視する。〈ベリングキャット〉はインターネットで証拠を探すのに対し、「反・事実コミュニティ」は自分たちの主張の裏付けを探す(そして都合よくそれは見つかる。たいていはお仲間が捏造したものだ)。
「反・事実コミュニティ」の連中を説得するのは絶望的と言わざるを得ない。だが〈ベリングキャット〉がやっていることは決して無駄ではない。事実を提示することで誤った言説が広まるのを弱めることができるからだ。著者はこれを「ファイアーウォール(防火壁)」と呼ぶ。フェイクやプロパガンダが当たり前のように飛び交うネットの世界で〈ベリングキャット〉の存在感が高まっているのもうなずける。
本書を読みながら、伝統的なメディアの存在意義について考えさせられた。先日、料理屋のカウンターでひとり飲んでいたら、小上がりから政治家の名前が聞こえてきた。どうやらある新聞社の政治部の連中らしい。「〇〇先生は〜」と親しい政治家の話で盛り上がり、そうでない政治家は呼び捨てで貶していた。まるでそのテーブルだけ、昭和のまま時が止まっているかのようだった。「政治が変わらない」と嘆く声をよく聞く。だが政治が変わらないのはメディアが変わらないからだろう。
すでに世界の主流メディアは〈ベリングキャット〉の後を追いかけている。
『ニューヨーク・タイムズ』はネット調査の達人を集めて「ビジュアル調査チーム」を立ち上げた。元〈ベリングキャット〉のメンバーも参加している。BBCもオープンソース調査班を設置しアフリカに力点を置いて取材を始めた。カメルーン軍の兵士の残虐行為を暴くなどすでにスクープをものしている。『ウォールストリート・ジャーナル』でも「ディープフェイク」委員会をつくり、コンテンツがフェイクかどうか、記者が見抜けるよう訓練を始めている。これらはほんの一例に過ぎない。
旧メディアが世界の流れから置いていかれる中、SlowNewsが〈ベリングキャット〉と独占契約を結び記事配信をスタートするなど、日本にもデジタル時代の新しい調査報道をフォローする動きがあるのは心強い。だがこれだけではまだ物足りない。フェイクニュースは民主主義を壊す。ファクトチェックや検証報道の流れはもっと社会に広がらなければならない。
著者は日本の読者にもオープンソース調査の仲間に加わってほしいと呼びかける。「ぼくと同じゼロから始めたとしても、オープンソース調査の方法ぐらい簡単に学ぶことができる」とそのメッセージは熱い。「だれでもメディア」の時代である。あなたも〈ベリングキャット〉のようなスクープを放てるかもしれない。本書には実践的な知識も詰まっているので、これから「インターネット探偵」になろうという人にも参考になるはずだ。
ノンフィクションを読む醍醐味は、新しい世界を知ることにある。ジャーナリズムの最前線でいままさに起きている革命について教えてくれた本書を、たぶんこの先も何度も読み返すことになるだろう。