『アダム・スミス 共感の経済学』「見えざる手」の前提条件としての「共感」

2022年2月16日 印刷向け表示
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作者: ジェシー・ノーマン,JESSE NORMAN
出版社: 早川書房
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アダム・スミスと言えば、「見えざる手」の『国富論』(1776年)で有名な、「近代経済学の父」である。『国富論』は、貿易による貴金属と貨幣の蓄積が国富だと考えられていた当時の重商主義に反対して、国民にとっての富の源泉は労働だと説いた、今日まで読み継がれている古典的名著である。

それにも関わらず、スミスは歴史上最も誤解された経済学者だと言われている。その理由は、まず、スミスは『国富論』の中で、「神の見えざる手」(invisible hand of God)と言ったとされるが、実は「神の見えざる手」という表現を一度も使っていないということである。『国富論』の中では、「見えざる手」(invisible hand)という言葉が一度出てくるだけである。「ジュピターの見えざる手」という言葉は使ったことがあるが、それは『天文学史』という、経済とは無関係の本の中においてである。

次に、スミスにとって『国富論』と並ぶ車の両輪のひとつである『道徳感情論』(1759年-1790年)の存在が、長らくおろそかにされてきたということがある。『道徳感情論』は、経済学書である『国富論』の前提となる倫理学書であり、ここでは、「見えざる手」が機能するための重要な前提条件としての「共感」の存在と役割について示されている。なぜ共感が市場取引と関係するかと言えば、相手が欲しているものを察する能力があるからこそ、こちらの欲するものと相手の欲するものをマッチングさせて、お互いにとってメリットがある関係を取引を成立させられるからである。

つまり、スミスの経済学は、彼の人間性に対する深い洞察の上に成り立っており、本来、両書は同時に読まれなければならないものなのである。

因みに、もうひとつ付け加えておくと、これは残念ながらスミスの死によって実現しなかったが、彼は『諸国民の法』(Law of Nations)という法学書の出版も計画していた。『国富論』の原題が「Wealth of Nations」であることからも分かるように、大きな枠組みとしては、『道徳感情論』という土台の上に、『諸国民の富』という経済学書と『諸国民の法』という法学書があるという体系が描かれていたのである。

本書には、この辺りの詳しい経緯が記されており、それによって、これまでベールに覆われてきたスミスの思想の全貌が見えてくる。

こうしたスミスの思想には、「日本資本主義の父」の渋沢栄一、「社会的共通資本」の宇沢弘文、更には、国連の SDGs(持続可能な開発目標)と共通するものがあるように思う。それは、人間の本質から離れ、自然科学のアナロジーで進化してきた経済学とそれが加速する経済のあり方や資本主義の仕組みを、もう一度、人間の側に引き戻そうという試みだという点においてである。

渋沢栄一が1916年に著した『論語と算盤』の「論語」は道徳や倫理を、「算盤」は利益を追求する経済活動を意味している。ここで渋沢は、『論語』を拠り所に道徳と利益の両立を掲げる「道徳経済合一説」を唱えた。そこで彼が思い描いた経済の姿は、公益を追及するのに最適な人材と資本を広く集めて事業を行い、そこで得た利益を出資した人たちで公平に分け合う「合本主義」というものだった。

この約150年前に書かれたスミスの『道徳感情論』は、上述の通り、自由な経済社会が成立するための前提として、他者の感情に共感する人間の姿を提示している。これは、まさに渋沢栄一が実業を行う中で見出した人間像そのものである。

同様に、「ノーベル経済学賞に最も近い日本人」と言われた宇沢弘文は、「人間が社会の中心に置かれず、グローバル市場経済の大きな歯車にすり潰されなければならないのはなぜか」という強い危機感を抱いていた。そして、いかにして経済学に社会的な視点を導入できるかというテーマに取り組み、1980年代に「社会的共通資本」という答えを導き出すことで、一旦、人間から離れてしまった経済学をもう一度、人間の側に引き戻そうとした。

社会的共通資本というのは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」のことである。具体的には、①自然環境(山、森林、川、湖沼、湿地帯、海洋、水、土壌、大気)、②社会的インフラ(道路、橋、鉄道、上・下水道、電力・ガス)、③制度資本(教育、医療、金融、司法、文化)の3つに分けられる。宇沢は、それらについては、利潤追求の対象として市場に委ねられてはならないと考えていた。

渋沢や宇沢のこうした思想は、2015年に国連が提示したSDGsに通じるものがある。なぜなら、SDGsの中核的な理念は、「誰一人取り残さない」社会の実現だからである。

SDGsは、貧困、飢餓といった開発途上国の課題だけでなく、気候変動、イノベーション、働きがいなど、先進国の課題も内包する広範囲な目標である。これは、経済や社会がなんのためにあるのかを問い直し、我々の手を離れて自律的な運動システムになってしまった世界をもう一度、我々自身の手に取り戻そうという、人間性回復の運動だと言うことができる。

このように、「共感」を通じたスミスの人間への深い理解は、その後、主流派経済学と経済のグローバル化によって片隅に追いやられてしまったものの、150年後の渋沢栄一、その70年後の宇沢弘文、更にその30年後のSDGsへと受け継がれているのである。

このように、本書には、現代に通じるあらゆる経済的・社会的問題が包含されている。経済活動に関わるすべての人、そして今の経済学に疑問を抱いているすべての人に、是非、読んでもらいたい一冊である。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
作者:成毛 眞
出版社:中央公論新社
発売日:2021-07-07
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