バイオベンチャー・ビオンテック社の新型コロナウイルスワクチン開発秘録だ。その疾走感が半端ではない。なにしろ、ワクチン開発に取り組むチームを組織した日からヒトに投与するまでわずか88日しか要さなかった。このことからだけでも、その猛烈なスピードが想像できるだろう。
え?ワクチンといえばファイザーとモデルナのmRNAワクチン、それにアストラゼネカとかで、ビオンテックなんて聞いたことない、という人が大多数かもしれない。ごもっともである。しかし、ファイザーのワクチンは、ファイザー社ではなく、ドイツのビオンテック社が開発したものなのだ。そののワクチンについては、ファイザーが資金提供をおこない、50/50の権利を有するという契約がなされている。だから、本来なら、ファイザー・ビオンテックワクチン、あるいは開発者に敬意を表してビオンテック・ファイザーワクチンと呼ぶべきだ。ただ、製造販売を担っているのがファイザー社だから、通称ファイザーワクチンになっているにすぎない。
ビオンテックの創業者はウール・シャヒンと妻のエズレム・テュレジである。ともにトルコ人でドイツに渡り医学を学んだという経歴を持つ。免疫学を学んだふたりは、メッセンジャー RNA (mRNA)を利用した、個別的ながんの免疫療法の開発に取り組み始める。ビオンテック社を設立して研究を進め、ようやく評価が高まり、これ以上プロジェクトを増やす余裕がないと判断していた時期に、新型コロナウイルス感染症が頭をもたげ始める。
夫妻の決断力と実行力は凄まじい。2020年1月25日、まだ感染者数が1000人に満たない日に、二人はワクチン開発に取り組むことを誓い合い、翌日にはウールがワクチン候補の設計とおおまかな技術プランを練り上げた。そしてスタートしたのは「プロジェクト・ライトスピード」。Light Speed(光速)という名前が表すように、何しろ重視したのはその迅速さだ。
勝算があった、とはとてもいえないが、自分たちが改良を加えてきたmRNAテクノロジーを今こそ活かすべきだと判断したのである。ただし、mRNAの技術はあるが、ワクチンに必要な他の技術はほとんどない。それに、ワクチン市場を支配していた保守的な大企業は実績のないmRNAワクチンに懐疑的だったし、mRNAワクチンについてはモデルナ社が明らかに先行していた。
しかし、ウールは決断した。ひとつは、新型コロナウイルス感染症がおそらく猛威をふるうであるに違いないという先見性、そして、もうひとつは、自らが持てる技術への自信だ。といっても、ワクチン製造の経験はゼロで、競合他社からは周回遅れであった。にもかかわらず、4月にはワクチンの治験を開始して、年内にはその開発を終了するというプランを立てる。信じられない決意だ。さらに信じられないことは、プランがほぼ予定通りに進行したことだ。
奇跡としか言いようがない。科学的あるいは技術的な課題、認可当局との交渉、資金繰りなど、次々と現れる難題を快刀乱麻のごとくクリアしていけたことには驚嘆を禁じ得ない。このような奇跡を生み出せたのは、何よりもスピードを重んじ一人でも多くの人を助けるという信念のウール、そして、一糸乱れず突き進んだチームのメンバーたちがいたからこそだ。
二十種類のワクチン候補が四種類にしぼられ、最終的には現在使われているワクチンが選定されるのだが、そこには、最後の最後でドンデン返しと言ってもいい出来事があった。もしそれがなかったら、ファイザーワクチンは効果も副反応も満足のいくものになっていなかったかもしれない。医学の神様はウールとエズレムのビオンテック社に、いや、人類に対して微笑みかけたのである。
この本は大きく三つの内容から成立している。ウール夫妻がいかに決断して迅速に基礎研究を進めていったか、ビオンテック社の成り立ちなどバイオベンチャービジネスの話、そして、ワクチンの臨床試験についてである。多くの本ではどれかに偏りがちなのだが、この本ではそのバランスが見事で、いずれについても非常にわかりやすく書かれている。さらに、この本の読み応えがすごいのは、単なる出来事の記録ではなく、それぞれのエピソードにおける人間の営みが詳しく書かれているところだ。
イノベーションというと、スティーブ・ジョブスのように、ついカリスマのような個人を思い浮かべてしまう。しかし、ビオンテックの成功は、もちろんウールがいてこそだが、チームとして、それぞれの担当者がベストを尽くして解決策を見いだし、それがうまく組み合わせられたことによる。集団によるイノベーションだ。
ライトスピード・チームは六〇カ国以上の専門家で構成されており、その半数以上が女性だった。
ウールとエズレムの経歴も含めて、ビオンテックの勝利を支えたのはダイバーシティーだった。我が国で巨額の資金が投入されたとしても、はたしてこのような展開が可能だろうか。わたしにはとてもそうは思えない。
この夫婦こそが私たちの夢を叶えてくれる」と思っていたのです。
ビオンテック社の設立に際し、1億5千万ユーロという巨額の投資をおこなった双子のシュトリングマン兄弟の弟、常に「会社は人次第だ」と語るトーマスの言葉である。この人がいなかったら、ファイザーワクチンは生まれていなかっただろう。すごい目利きである。
ワクチンの大成功は巨額の利益を生み出した。しかし、シュトリングマン兄弟は株式に一切手をつけていない。支援したいのは、あくまでもビオンテック社の当初の目的である「がん治療の突破口」なのだ。ウール夫妻も株式を売却しておらず、車もテレビも所有せず、大学で講義を続けているという。なんと素晴らしい人たちなんだ。
二人の医師は、病棟から研究室へ、そしてビジネスやテクノロジー、教育の世界へと足を踏み出した。研究テーマにより分類される文化のなかにあって、専門の分野のなかにとどまることを拒否した。そのため、個別のがん治療を念頭において設立されたビオンテックという会社には、この時代において最悪のパンデミックを食い止められるほど多種多様な専門知識が浸み込んでいた。
それこそが、重視すべき背景である。
科学が大きく進歩した今日、何かを成し遂げるには、こういったことにこそ考えを巡らせるべきではないか。名ばかりの「科学立国」日本では、研究費配分における「選択と集中」や「ムーンショット」ばかりが論じられることが多い。なにか間違えてはいないか。
この本から学び取れることはあまりに多い。
mRNA生みの親と呼ばれるカタリン・カリコ博士についての本。あわせて読みたい。