今年は異常な年だった。いや、昨年に続いて、というべきかもしれない。
「あっという間に年末ですね」「なんだか1年が終わる手応えがないですよね」同じような会話を1年前も交わしていたような気がする。
2020年と2021年は、疫病とオリンピックの年として記憶されるだろう。
パンデミックと祭典は私たちに何をもたらしたか。本書はコロナ禍とオリンピックに揺れた日々を、東京に生きる人々を通して描いたルポルタージュである。
とにもかくにも著者の熱量がびんびんに伝わってくる一冊だ。この歴史の特異点のような年に何が起きたのかを、余さず記録してやろうというジャーナリストの気合がみなぎっている。文字どおり著者は東京中を駆け回ってさまざまな人に話を聴いている。有名無名を問わず、また老若男女も問わず、本書におさめられた31のエピソードに登場するのは、まぎれもなく私たちと同じ時代を生きる人々だ。
著者についてはネットメディアで記者をしていた頃からその仕事に注目してきた。理由はいくつかあるが、もっとも大きいのは、独自の視点に教えられることが多いからだ。著者の手にかかれば、メデイアがさんざん取り上げた話題もまた違った角度からみることができる。
「夜の街」「感染対策」と項目を並べれば、誰もが「ニュースで見たあの話題ね」と思うだろう。だがほとんどのメデイアが出来事の表層をなぞるだけなのに対し、著者は世の中に伝わるイメージと実態とのあいだに目を向ける。
例えば、緊急事態宣言が出されていた時、営業を続けるパチンコ店に集まる客に罵声を浴びせかけるユーチューバーがいた。いわゆる自粛警察である。著者はこの27歳の男性のオンライン上での激しい暴言と、オフラインでの生真面目さとのギャップに注目する。そしてこの人物の1年間の心境の変化を追うことで(彼の「許せない」という感情が向かう先はもはや新型コロナではない)、自粛警察が決して特殊な人々ではなく、私たちの社会の産物であることを明らかにしていくのである。ひどい暴言に眉をひそめながら読んでいたら、いつの間にかその他罰的な感情は自分にもあることを突きつけられていた。見事というほかない。
もしかしたらジャーナリストとは、ちょっとした変化やわずかな違いに気づく人のことをいうのかもしれない。著者はことにその感覚が鋭敏なように思う。
例えば、流行の最先端エリアである表参道で130年前から商売を続ける老舗書店を取り上げたルポ。コロナ禍にあっても店を開け続ける店主の言葉に、著者は表参道の光景を対置させる。
街の一角に佇む書店から目を転じれば、ディスプレイから商品を撤去させ、休業を告げる日本語と英語の張り紙を出したブランド店などが軒を連ねている。その光景に著者は、「それでも、やってくるお客様」のために店を続けようという発想とは別の論理を見出す。誰かのために店を開け続ける商売人の矜持よりも、合理的でドライな企業の論理のほうが幅を利かせる社会になってしまったことに私たちは気づいていただろうか。
ちょっとした変化やわずかな違いに気づくこと。そこに違和感を抱き、社会の異変を察知すること。著者の独自の視点を支えているのは、おそらくこうした感性ではないか。それはセンスとも言い換えられるものだ。そんな感性の持ち主だから、著者の文章には、ほんのささいな一言でニュアンスを伝えるようなところがある。
例えば、東京オリンピック・パラリンピックの会場や選手村で感染対策を担った人物を取り上げたルポ。看護師としての現場経験も豊富な彼女にとって、たとえオリパラといえど、「真夏のマスイベント」のひとつに過ぎない。現場では感染症対策の基本を徹底して本番にのぞんだ。その結果、社会が懸念していたよりも陽性者を低い数字にとどめることができた。感染対策は成功だった。だが、彼女はこんな感想を漏らしている。専門家の中にはこの結果に対して露骨に不満そうな表情を浮かべるものもいたと。
当時、多くのメディアが医療逼迫という言葉を使っていたが、彼女からすると、あまりに主語が広すぎると感じられた。必要なのは、どのエリアの、どの病院の、どの診療科で何床分のベッドが逼迫しているのかという具体的な情報である。だがメディアはただ危機感を煽り続け、世間では逼迫という言葉だけが一人歩きした。こうした「空気」の醸成に、時に加担してしまう専門家もいること。そしてなんとか無事に大会を終えることができたのは、無名の実務家たちの冷静な対応があったからだということを、著者の文章はさりげなく伝える。
この本にはあらゆる人が登場する。デビュー40周年を迎えたミュージシャンもいれば、靴職人になる夢を胸に新橋で靴を磨く青年もいる。中年になって家業のもつ焼き店を継ぐと決心した女性もいれば、コロナ禍で自分自身の価値を再発見したデザイナーもいる。
こうした人々の物語を描くのに、著者はさまざまな手法を駆使している。
ニュー・ジャーナリズム以降、書き手は方法論に無自覚でいることはできない。こうしたジャーナリズムの歴史も知悉する著者ならではの試みも、本書の読みどころのひとつだ。
先行作品になぞらえるなら、本書はピート・ハミルの『ニューヨーク・スケッチブック』や開高健の『ずばり東京』などを彷彿とさせる。だが本書を読みながらもっとも近い雰囲気を感じたのは、今年話題になったインタビュー集『東京の生活史』だった。東京の姿を見事に浮かび上がらせた本が、どちらもそこで生活する人々へのインタビューをもとにしていることは示唆に富んでいる。
個人的に好きなのは、巻末に置かれた「偶然に開かれて」というルポだ。
スピード重視のネットメディアの仕事に疲れをおぼえていた著者は、息抜きにある落語家の独演会に出かけることにした。ところが原稿に追われギリギリの時間になってしまったため、職場からタクシーに飛び乗り、「国立演芸場まで」と行き先を告げた。その後、車内で驚くようなことが起きる。その顛末はぜひ本書を読んでほしい。これだから東京は面白い。
都市は偶然に満ちあふれている。思いがけない出会いがあり、そこから思いもよらないストーリーが生まれる。そうした物語がいくつも集まって、「東京」という街は出来上がっている。
たまにはスマホの画面から顔を上げて、周囲を見回してみよう。電車の向かいの席に座る人にも、腰を抜かすような人生の物語があるかもしれない。そんな想像をするだけで少し穏やかな気持ちになれるような気がする。もしかしたら社会の「分断」なんて、メデイアや政治家、SNS中毒の一部の人間が煽っているだけかもしれない。
この街にはいろいろな人がいる。みんな今を必死に生きている。
なにかひとつのキーワードでくくれるほど、東京は単純ではない。
「分断」が喧伝された異常な年がまもなく終わろうとしている。
そんな年の終わりに、このような本に出会えてよかった。