本書には、生物学や遺伝子学的に「人が悩んでもしょうがないこと」が51個紹介されている。著者は生物学や脳科学・心理学の領域に長年携わるかたわら、「たけしのTVタックル」などの人気テレビ番組への出演経験も多数ある進化心理学者だ。とても親しみやすい、読んで楽しい本に仕上がっている。
相田みつをの「にんげんだもの」という書をみて、心が軽くなる人は多いだろう。本書を読むと人間であるまえに「動物だもの」ということに気づかされる。人間も動物と同じように、生物学的に「できないこと」や「ついやってしまうこと」がある、とわかるのだ。これほど簡単に肩の荷が下りる本には、なかなか出会えるものではない。
しかし一方的に、しょうがないから怠惰に過ごせ、と言われたらイラっとするに違いない。本書は決してそういうアプローチの本ではない。悩みを手離してもよし、自分の得意を見出して個性を伸ばしてもよし、なのである。いわば、ストレングスファインダーとしても使える本なのだ。「はじめに」にはこう書いてある。
幸福な人生を送るために、まずやるべきこと。
それは、ひとりの人間として、どれをがんばるべきで、どれを諦めるべきかを見極めることだと、私は考えます。 ~本書「はじめに」より
まずは、世の中にある「とにかくがんばれ」「努力しろ」の大合唱から身を置くこと。そして、「がんばってもしょうがないこと」と「がんばればどうにかなること」を見極めること。そして、捨てるべきは捨て伸ばすべきは伸ばすということだ。では、人間が「生物学的に」抗えないのはどんなことだろう。本書の51個の中から、いくつか列挙してみよう。
・雨の日はなんにもしたくなくなる
・人前で話すと緊張してしまう
・人の意見に流されちゃう
・いつも後悔しちゃう
あなたにも、心当たりがあるだろう。
私は雨の日はできるだけ外出したくない。本書によると、それは狩猟採集時代に「雨の日に静かにしている人々の集団が生き残った」結果だ。生き残るためには、その方が有利だったらしい。しかし近年は、雨くらいで引きこもると怠け者だと言われてしまう。しかし、本書によるとそれは生物学的に「無罪」となる。こんな具合に進んでいく。
「人前で話すと頭が真っ白になる」人は多いだろう。本書によるとそれは、見知らぬ人を捕食者だと生物学的に思ってしまうからだ。高校の授業では質問が多く出るのに、大学の授業では出なくなることからもわかるという。高校と違い、大学の教室には知らない奴がたくさんいる。
でも、人前で話すのが得意な人はいる。それは、見知らぬ人への警戒心が生まれつき弱い突然変異か、経験や知識を積んで人前で話すのに慣れた人だという。自然界では捕食者に真っ先に食われる存在かもしれないが、いまの人間社会では「うらやましい存在」のようにも感じられると書いている。
また、職場で議論をしていると「声が大きい人の意見に流されてしまう」ものだ。しかしこれも、生物学的には当たり前らしい。狩猟採集時代の小集団は、団結力がものを言うチームだった。だから、対立しないことこそが職場を守ることになる、と無意識に理解しているというのである。
では、「いつも後悔しちゃう」のはどうしてか。本書によるとそれは、将来の成功率をあげるためだという。後悔するたびに嫌な感じが残るのは、そうすることで過去の失敗体験を忘れにくくしているらしい。素晴らしい機能ではないか。こう考えるとグジグジ考えるのも悪いことではないと思えてしまう。
しかし本書では、さらに深い考察を加えている。現代社会は複雑化しすぎたため、必ずしも過去の失敗体験が活かせるわけではなくなったというのだ。技術革新や社会制度、社会情勢の変化。だから後悔して辛い思いはしたが、単なるくたびれ儲けで終わってしまう事態にもなると指摘する。
著者は、20世紀後半に生物学と脳科学の視点が併記されるようになったアメリカの心理学の教科書を読んだ。そのときに心理的な悩みは、動物の生態や生物進化の枠組みと比較することで、解消できるという実感を得た。そこで日本の学生向けに解説書を書いたところ、好評になったという。本書執筆の動機をこう述べる。
今回、「もっと広く市民一般の方々に読まれる本が必要だ」という思いが強くなり本書を執筆しました。本書を読んでくれた方が「悩みが軽くなりました」と感想をお寄せいただければ、それが私の満足感になります。 ~本書「おわりに」より
進化論と脳科学を介して、心理学と生物学が結びついた面白い考察である。私も心が軽くなった。振り返ってみれば、これまで私は無駄な努力を重ねてきた気がする。本書を読んだからには、無駄な努力を極力避けていこう。自分を甘やかしつつ、得意分野で一点突破をはかっていけたら楽しそうだ。
狩猟採集時代の膨大な時間に比べれば努力至上主義はごくごく最近の話で、人間はまだそれに対応しきれていない、というのが本書の論点である。しかも、最近生まれたはずのその価値観は既に息苦しいものになっている。「生物学的に、しょうがない!」みんなで声をあわせて叫び、後は各自の個性にあわせて別の道を歩いていきたいものである。