『暁の宇品』日本はなぜ「海の戦争」で敗れたのか
新刊が出たと聞けば、迷わず購入する著者がいる。内容を事前に確かめることはない。なぜならその人が書くものに期待を裏切られたことはこれまで一度もないからだ。
堀川惠子氏は、当代最高のノンフィクションの書き手のひとりである。著作はいずれも高い評価を受け、受賞歴も数知れない。本書も凄い本だった。すでに膨大な文献が世に出ている太平洋戦争について、これまでにない新しい視点から光を当てている。
四方を海に囲まれた日本は、食糧や資源の輸入を船に頼らざるを得ない。いざ戦争となれば、戦地に兵を送り出すのも、武器や食糧を届けるのも船頼みとなる。海上輸送は国家存立の基本だ。日清日露から太平洋戦争に至るまで、日本が戦った戦争は実は「海の戦争」だった。その中心にあったのが、広島の宇品である。
東京を起点とする鉄道が広島まで開通していたことや、西日本でもっとも早く港湾整備が終わっていたことなどから、軍事拠点として宇品に白羽の矢が立った。著者は、「暁部隊」と呼ばれた宇品の陸軍船舶司令部に焦点を当てることで、太平洋戦争の知られざる歴史を明らかにする。
本書が傑作なのは論を俟たないが、それ以上に声を大にして言いたいのは、大変な労作だということだ。フリーの書き手だけでなく、新聞社などの大手メディアに所属する記者を含めても、著者の取材の徹底ぶりは群を抜いている。今回も貴重な未公開資料を見つけ出し、関係者の証言を粘り強く集め、歴史に埋もれていた無名の将官たちの人生を掘り起こしている。本来であれば彼らは、それぞれが歴史にその名を刻まれてしかるべき人物だ。
著者は三人の軍人を軸に、知られざる宇品の全体像をよみがえらせていく。彼らの足跡から見えてくるのは、極東の島国にとってもっとも重要な兵站機能が破綻していくプロセスだ。それは、太平洋戦争における日本の破滅の構造そのものでもあった。
本書でとりわけ鮮烈な印象を受けたのが、「船舶の神」こと田尻昌次中将の存在である。
陸軍士官学校では後に陸軍大将となる阿南惟幾やマレー作戦を指揮した山下奉文らと同期だが、歴史上の有名人である彼らと比べ、田尻の名は一般にはほとんど知られていない。その経歴は独特だ。一貫して船舶畑を歩み、軍人人生の大半を宇品で過ごしている。そして、宇品のトップである船舶輸送司令官を務めた後、日米開戦を前に軍を「罷免」された。いったい何があったのか。
田尻は軍人らしい威圧感とは無縁で、部下に慕われる人格者だったようだ。敗戦時は中国の天津にある船会社の社長だったが、多くの日本人経営者が中国人の使用人に身ぐるみ剥がされる中、逆に使用人たちが護衛となって他の中国人から田尻一家を守ったというエピソードからも、その人柄がうかがえる。
それにしても、なぜ陸軍の田尻が「船舶の神」なのか。世界中のほとんどの国では、海上輸送は海軍の仕事で、陸軍の出番は物資の揚陸や前線への運搬などである。陸軍が海洋輸送業務全般を担うケースは世界でもまれだ。なぜ日本では陸軍が船を動かすことになったのか。
そのきっかけは明治までさかのぼる。詳しい経緯はぜひ本書を読んでほしいが、ごく簡単にいえば、海軍が陸軍の輸送に非協力的だった背景には、建軍当初からの陸軍(長州)と海軍(薩摩)の縄張り争いがあった(加えて著者は鎖国の歴史も影響したと指摘している)。
ともあれ、海軍に協力を拒まれた陸軍は、自前でなんとかするほかなかった。だが自前といっても船がない。ここから「民間船のチャーター」の発想が生まれる(軍事利用では「傭船」)。船体と船員をセットで民間から借り受ける。これが陸軍の船舶徴傭の原型となった。太平洋戦争では多くの民間の船員が過酷な南方戦線に送られた。太平洋戦争中に命を落とした船員は6万643人。戦死者の比率は陸軍20%、海軍16%に対し、船員は43%にものぼるという。
田尻の軍人としての歩みは、この国の船舶輸送体制の近代化と重なっている。
第一次世界大戦で戦争のかたちが大きく変わり、陸軍では兵器の近代化が最重要課題となっていた。中でも、部隊を上陸させる際に必要な小型舟艇の開発が急務だった。田尻はズーズー弁の天才技師・市原健蔵とともに、陸軍初の自前の「足」となる大発動艇や小発動艇、装甲艇、高速艇甲、高速艇乙、特殊発動艇などを次々に完成させていく。またこれらを操縦できる人員を育てるための制度もつくった。まさに八面六臂の活躍である。
日中戦争の間、日本は7回にわたる師団規模の上陸作戦をすべて成功させ、世界の軍事関係者を驚かせた。アメリカの軍事史家によれば、1939年の時点で日本だけが「水陸両方作戦のためのドクトリン、戦術概念、作戦部隊を保持」していたという。またアメリカ海軍情報部も「日本は艦船から海岸の攻撃要領を完全に開発した最初の大国」と認めた。
だが、ここが頂点だった。ここから日本は奈落の底に転げ落ちていく。
そもそもが資源のない島国である。戦争が長引けばそれだけ物資が逼迫してくるのは理の当然だ。アメリカ海軍情報部が日本を「大国」としたのは買いかぶりもいいところで、実際は船が足りず、新しく建造にしようにも資材が足りなかった。特に作戦の最前線に送られる輸送船の動向をすべて把握している宇品には、大本営がどんなに戦果を偽って世間に発表しようとも、真の情報がもたらされていた。
恒常的な物資不足を打開するための「南進論」が軍部で台頭するのをみて、ついに田尻は軍人人生を賭けた意見具申に及ぶ。南方に進出するには一にも二にも、船が必要である。だがその船が圧倒的に不足する日本にとって、南進論も日米開戦も夢物語に過ぎないことが、田尻にははっきりと見えていたのだ。
ファクトに基づき輸送の重要性や合理化を訴える田尻の意見具申は、陸軍中枢のみならず、厚生省、大蔵省など船舶輸送に関係するすべての省に及ぶものだった。本書にはその長大な意見書が掲載されているが、冷静かつ鬼気迫る内容だ。だがこの申し立ては無視された。そして宇品で不審火が起こり(おそらく謀略であろう)、その責任を問われ、田尻は軍を追われてしまうのである。
本書を読みながら幾度も暗澹たる思いに駆られた。
特にガダルカナル島で輸送船団が壊滅していく様子は涙なしには読めない。
船が次々に撃沈され、万策尽きたあげく検討されたのは「牛輸送」だった。生きた牛の体に糧秣をくくりつけ海上に落とせば、牛は生きるために必死で岸に泳ぎ着くだろうというのだ……。
軍の中枢が補給と兵站を軽んじ、「ナントカナル」の精神論で無謀な作戦に突き進んだために、多くの命が失われてしまった。こうした話には既視感がある。ロジスティクスの軽視やプランBの欠如などは、現在の政府のコロナ対応にもみられるものだ。指導者は懲りずに同じ轍を踏む。歴史に学ばないのは愚者の習いなのか。
本書は、田尻が去った後の宇品の変遷を、若き船舶参謀の篠原優や、最後の船舶輸送司令官となった佐伯文郎中将の姿を通して描いていく。追い詰められた戦争末期、宇品の主要任務はもはや「輸送」でなく、「船舶特攻」へと変わってしまっていた。そして、あの8月6日がやってくるのだ。
原爆投下直後、宇品の船舶司令部は驚くべき行動に出ている。
「われわれには、船がある」
原爆投下からわずか35分後、佐伯司令官の号令で、「暁部隊」は独自に被災した市民の救護と救援を開始したのだ。船舶司令部の持つすべての舟艇が動員された。広島は、町を縫うように7本の川が流れるデルタの町である。この川から隊員たちは続々と上陸し、火の海へと飛び込んでいった。10日間にわたる戦いの始まりだった。
当時、海軍が江田島から動かなかったのと対照的である。なぜ佐伯司令官は独自の判断で動いたのか。著者はこの謎も解き明かしているが、真相を知った時は胸が熱くなった。詳しくはぜひ本書を読んでほしい。この時の佐伯司令官の覚悟に比べれば、平和記念式典で原稿を読み飛ばす首相など論評に値しない。
2021年は太平洋戦争の開戦から80年の節目である。
陸軍船舶司令部について、当時を語ることのできる生存者はもうひとりもいない。だが少なくとも私たちは、本書によってあの時に何が起きたかを知ることができる。
過ちを繰り返さないためには歴史に学ばなければならない。
シーレーンの安全と船舶による輸送力の確保は、今も変わらずこの国の生命線なのだ。