翻訳は面白い。例えば、松田青子の短編集『おばちゃんたちのいるところ』の英訳タイトルWhere The Wild Ladies Areを初めて目にした時、「おばちゃん」が“Wild Lady”と訳されているのに笑ってしまった。ワイルドレディー。ひとたび目にするともう、「ヒョウ柄の服を着たやたら圧の強い年配女性」のイメージしか浮かばない。ちなみにこの作品は昨年、「TIMEが選ぶ10月のおすすめの新刊」に選ばれた。
ここ数年、日本の女性作家が英語圏で注目を集めている。
2018年、村田沙耶香の『コンビニ人間』(Convenience Store Woman)がニューヨーカーなど十数誌で「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、多和田葉子の『献灯使』(The Emissary)が全米図書賞翻訳文学部門を受賞した。
2019年には、小川洋子の『密やかな結晶』(The Memory Police)が全米図書賞翻訳部門とブッカー国際賞のそれぞれ最終候補に選ばれた。
2020年に、柳美里の『JR上野公園口』(Tokyo Ueno Station)が全米図書賞翻訳文学部門を受賞し、ニュースになったことも記憶に新しい。
本書は、大学で教鞭をとるかたわら翻訳も手がける著者が、日本文学の英訳に携わる「文芸ピープル」のもとを訪ね歩き、話を訊いた一冊だ。登場するのは、英米の翻訳家、編集者、ブックフェス運営者、デザイナーなど。なぜ日本の、とりわけ女性作家がこれほど注目されているのか、日本の現代文学のどんなところに可能性があると思われているのか、英語圏の出版事情はどうなっているのかといったことが、文芸ピープルの言葉を通してみえてくる。
海外で人気の日本文学といえば、村上春樹を思い浮かべる人が多いだろう。もちろん今も人気作家だが、著者によれば、以前は海外の編集者に「ザ・ネクスト・ムラカミを紹介してほしい」と頼まれることが多かったのに、最近はもっぱら「ザ・ネクスト・ムラタ」探しにシフトしている感があるという。
『コンビニ人間』は、近年もっとも成功をおさめた日本文学作品である。2020年10月現在、アメリカで10万部、イギリスでは15万部を突破しているという。興味深いのは、この作品が「ノヴェラ」にもかかわらず売れていることだ。
ノヴェラ(Novella)とは中編小説のこと。英語圏では長年ノヴェラは売れないとされてきた。出版社も当初、短編をあわせた作品集として売り出すことを検討したが、「ひとつの作品として見事に完結しており」、他の作品を収録したら「素晴らしい結末が損なわれる」と考え、単独での刊行を決断したという。
本のタイトルについても議論が交わされた。『コンビニ人間』の英訳タイトルはConvenience Store Womanである。PersonやHumanではなく、あえて Womanとしたことで、この作品は#MeTooムーブメントとの関連でも読者の興味を惹いたようだ。特にイギリスではフェミニズムのテキストとして読まれているという(個人的には“Homo Convenience”というタイトル案に座布団一枚あげたいのだが)。
女性による文学作品は現在、英語圏で広く支持されている。アメリカで出版された本の売れ行きの85%を把握しているとされるブックスキャンによると、2019年の「リテラリー・フィクション」(日本でいう純文学)上位100位の売り上げのうち、女性作家の作品が7割近くを占めたという。この変化は10年ほど前からのようだ。アメリカで女性作家が「白人男性作家」に取って代わったのが2010年代だった。この10年でマッチョな発想は時代遅れになり、より多様な声が求められるようになった。日本に目を向けると、素晴らしい作品を書いている女性作家がゴロゴロいるではないか。欧米を中心に女性たちが声をあげ始めた中、日本の女性作家たちはいわば「発見」されたのだ。
日本の女性作家が描く女性像は、これまで日本文学の英訳で比較的多く見られた「エキゾチックな花」ではないと、ある翻訳家は指摘する。そこには現代社会を生きる等身大の女性が描かれている。男性の作品によく見られる一元的な女性像とは対極にある、多様な女性の姿が英語圏でも共感を呼んだ。日本の女性作家たちの作品は、エドワード・W・サイードのいう「オリエンタリズム」の文脈ではなく、まさに「私たちの物語」として読まれているのだ。
こうした読み方をされるようになった背景には、社会のムーブメントだけでなく、文芸ピープルによる本づくりの工夫がささやかな貢献をしていることも見逃せない。例えば、Where The Wild Ladies Areの表紙には、ガマガエルの絵が使われている。この作品を読んだことがある人は、「はてガマガエル?」と意外に思うかもしれないが、これは「休戦日」(A Day Off)という短編に出てくる、女性たちをセクハラから守る「ガムちゃん」というガマガエルらしき怪物からとったもの。作者も最初はこの表紙案に戸惑ったそうだが、「日本の作家の作品はこれまでほとんどかならずアジア人女性の顔や体の一部が〔表紙に〕使われてきたのでそれを避けたい」という出版社の一言に感銘を受けたという。せっかくの素晴らしい作品が、陳腐なオリエンタリズムの文脈で受け取られることがないよう、文芸ピープルたちは心を砕いているのだ。
本書を読んでいると、「コンテンツを届けるとはどういうことか」について考えさせられる。メッセージの内容が誤解されず相手にちゃんと届くにはどうすればいいか。かつての日本のような同質性の高い社会では、「これ、言わなくてもわかるよね?」といった粗雑なコミュニケーションでも通用したが、これだけ社会が分断化し、マイノリティも声をあげはじめた現在の日本では、もうそのようなやり方は通用しない。このことに気づいている人がどれだけいるだろうか。
本づくりのみならず、売り方の工夫やフェスでのファンとの接点づくりなども、駆け足だが取り上げられている。英語圏では無名の作家の作品を届けるために、これだけの熱意ある人々が関わっているのかと思うと胸が熱くなる。
本書によれば、リテラリー・フィクション(純文学)以外にも、近年はエンターテイメント性の高い純文学なども注目されているという。特に「リテラリー・クライム」(文学的要素の強いミステリーや犯罪小説)は映像化とも相性がよく、すでに伊坂幸太郎の『マリア・ビートル』(Bullet Train’)は映画化が決まっているそうだ(ブラット・ピット主演!)。そういえば、先日読んだ中村文則の新作『カード師』も、まさにこのリテラリー・クライムの秀作だった。翻訳されたらきっと評判になるだろう。
日本文学の快進撃は続いている。2020年の太宰治賞を受賞した八木詠美『空芯手帳』は、なんと国内で書籍化される前から英語圏での出版が決まった。あらすじ紹介とサンプル翻訳だけで翻訳権が売れ、現在、欧米とアジアの9カ国と地域で刊行が決まっているという。『空芯手帳』は、34歳独身の女性会社員が職場の理不尽に静かに抵抗する話だ。この作品も、フェミニズムの世界的潮流の中で評価されたのだろう。
いまや日本語の作品が、ほとんど「時間差」なしで海外の読者のもとへ届けられる時代である。言語芸術のようなドメスティックな要素の強い分野ですらそうなのだ。これからはあらゆる分野で世界を視野に入れることが当たり前になるかもしれない。人種や性別を超えた普遍的なメッセージを打ち出せる人は、ますます活躍の場が広がるだろう。少なくとも、LGBTは「生産性がない」だの「種の保存に背く」だの言っている連中が、世界から取り残されることだけは確かだ。