昨年秋から、姑の介護生活がにわかに始まった。
89歳で乳癌発覚!それだけでも驚くのに、特殊な癌なのですぐに全摘出をせよ、とのこと。衰えたりとはいえ、頭も身体も元気で病気のなかった母にとっては青天の霹靂だ。神戸で一人住まいなので、毎週の検査に付き添うため、遠距離を通うことになった。
そんな日々が続くうち、少しずつ母の言動がおかしくなってきた。そして手術後、想像していた通り、一人暮らしに戻るのは無理になった。コロナ禍のなか、何とか見つかった施設に「入居してもいい」という答えを聞いたときは心底ほっとしたのだった。
昨年『兄の終い』で大きな話題を呼んだ翻訳家でエッセイストの村井理子さんもまた、夫の母親の介護が始まっていた。『全員悪人』は身近で世話をしている村井さんが察知した、お姑さんの心の中にある不安や理不尽さ、なんだかわからない恐ろしさを、当事者の目線で綴ったエッセイとも短編小説とも読める一冊だ。
何でも完ぺきにできていた「私」なのに、なんだか最近いろいろわからなくなってくるの。隣に寝ているお爺さんは誰?なんで毎日知らない女がずかずか家に入ってきて、勝手にキッチンで料理をするの?もしかしてこの女はお父さんの愛人?ケアだのデイだの、ステイだの、それって何?もしかして私の信頼する「あなた」はこの家を乗っ取ろうとしている???
お父さんは認知症になったけど「私」は大丈夫。免許証は絶対に返上しないし、家計簿だって立派につけているでしょう?そういえば最近、お金が盗られたり、お父さんが偽物のパパゴンになったりするのは嫌だわ。パパゴンは退治しなきゃ、とテレビのリモコンで頭を殴ってみた。あれ、本物のお父さんに変わってる。
お姑さんは思う。周りは敵ばかり、悪人だらけだ。白衣の女は薬を飲んだかと聞くし、お父さん宛てに知らない女から手紙が来る。知らない人は気をつけてと言われてるけど、優しそうな若者だからまあ大丈夫でしょう、と排水溝の点検をしてもらったら大騒動になってしまった。でも私は何でもできるのだから大丈夫。大丈夫。大丈夫。
次から次へと起こる問題を、あなたは「わはは」と笑ってテキパキ片付ける。いつも大げさに騒ぐので、それも「私」はちょっと腹が立つのだけど。
「老い」は突然始まるわけではない。そんなこと百も承知だと思っていたけれど、実際に身近な家族の認知症は驚くしひどく堪える。ケアマネさんやヘルパーさんは慣れていて、テキパキと対処してくれるけれど、思いもかけない行動や言葉、突然の怒りや悲しみにどうしていいかわからない。
それも少しずつ慣れていく。最初は驚いているだけだったのに、気持ちを慮る余裕が出てくる。わが身の先を思い、準備でもしておこうかと考える。
コロナは本当に大変。でも家の中に引き留めておく立派な理由になる。老人たちは何もできない、分からないわけじゃない。行動には理由がある。おおらかに受け止めるのは難しいけど、理を尽くせば、きちんとわかってくれるのだ。そう信じるしかないし、怒っても嘆いても仕方ない。ドライに割り切ることがお互いのためなのだ。
同じ境遇にある人はため息を尽きつつ、きっと笑って読むだろう。ウチのほうがマシだと安堵するかもしれない。それぞれの体験は上を見ても下を見ても千差万別、無限大。
あと20年もすれば、私もそちらの仲間入りです。先輩のやること、よく覚えておきますね。
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仲たがいしていた兄の突然の死。そこから始まる一部始終の顛末は。理子さんの冷静な筆が光る。