まずは著者の紹介からはじめよう。
管賀江留郎氏は在野の研究者にして著述家である。長年、ウェブで「少年犯罪データベース」を主宰し、また2007年には、そこに集積された資料に基づいて『戦前の少年犯罪』(築地書館)を上梓した。
この本に盛り込まれた内容は、少年犯罪の“増加”や“凶悪化”に心を痛め、その元凶として、現代の薄情な潮勢から時代の風俗の病理、果ては戦後日本人の堕落までを論おうとする人々にとって、さだめし衝撃的であったに違いない。
「戦前」には、子の親殺し、小学生による殺人、未成年者の「動機のみえない」異常犯罪や幼女レイプが多発し、キレ易い子供の暴力も日常茶飯事だった……。
『戦前の少年犯罪』はひたぶるにありのままの事実を突き付けた。私達が忘却していただけなのである。忘れ易い私達は、例えば「戦前」の新聞を「何紙か読むだけで年に30件や40件の親殺し記事を見つけることができ」るのに、記録を共同の記憶とする些細な努力すら怠ってきた。剰え、無知と懶惰の上に居直った挙句、一部に「戦前」の家庭や学校で施されたしっかりした教育、地域共同体の醇風美俗を称揚する向きまで出てきた。
前著は、正確な事実認定と歴史認識に基づいて、かかる錯乱せる議論状況を質す結果となった。
管賀氏は当時「事実をして語らしめる」をモットーとしていたようで、一切の解説等を付加せずに事件のデータだけを並べた方がよいと主張していた。だが「それでは本にならぬ」という版元等の要請を受けて、事件の時代背景を説くようになったという。
こうして「少年犯罪から考察した昭和史という、なかなかほかに類例のない本」が出来上がったのである。
本書、『冤罪と人類──道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』ではさらに歩を進めて、具体的な事件についての微に入り細を穿つような詳察から出発しながら、他の事件や案件との繋がりや関わりを追ううちに、その総体の背後にあって人々を否応なく突き動かす力(権力)の正体を突き止める。
その手付きは、一面でピエール・リヴィエールの殺人に関する公判記録や大衆紙の報道姿勢を分析するミシェル・フーコーの編著を彷彿とさせる(『ピエール・リヴィエール──殺人・狂気・エクリチュール』河出文庫)。
ピエール・リヴィエールとは、19世紀前半、フランスの小さな農村に住んでいた青年の名だ。彼は母親、妹、弟を惨殺した。このピエールが獄中で書き綴った手記をめぐり、司法、精神医学、メディアなど様々な権力機構が軋みながら作動する。フーコーは、この態様を具に書き留め、人々の関係に介入し、人々を駆り立てる力(権力)の正体を見極めようとする。
管賀氏の本書における試みはこれに似ている。が、フーコーの示した分析よりもずっと実証性や具体性に富み、かつ複雑でダイナミックだ。
本書では、日中戦争と第二次世界大戦の下で発生した未成年の聾者による連続殺人「浜松事件」と、戦後6年目(1950年)に起きた重大冤罪事案「二俣事件」が主軸となる。
浜松事件は、1941年夏から翌年夏に掛けて、短刀で9名が刺殺され、6名が重軽傷を負わされるという、稀にみる凶悪事犯だった。この事件解決の勲功によって名刑事として脚光を浴びたのが紅林麻雄である。
しかし紅林の声価は、戦時下の内務省と司法省の対立という権力闘争が生み出した幻であった。「紅林刑事はたんに難事件を解決したのみならず、極端に云えば、警察を、内務省を救った役所防衛の英雄ともなったのだ」。
さらにこの省庁間対立に直接的、間接的に関与したビッグネームたち、東條英機、中野正剛、平沼騏一郎、鈴木喜三郎らの織りなした政治模様が浮かび上がってくる。
敗戦と占領によって内務省も司法省も解体、再編を余儀なくされるなか、たまさか紅林の帯びた、名刑事という幻像が一人歩きを始める。1948年に起きた強盗殺人事犯「幸浦事件」を皮切りに、輿望を担い警部補に昇進した紅林は次々と重大事件を“解決”に導く。手段は拷問による自白強要、証拠の捏造、供述調書の創作だった。本書が重点を置く、一家四人が殺害された二俣事件はその典型であり、濡れ衣を着せられたのはやはり少年だった。
紅林警部補が手掛けた一連の事件の真相が公判廷で明らかになり、次々と無罪判決が下るなか、彼には「拷問王」なる汚名が付いて回るようになった。
何故、「戦前」の名刑事が、「戦後」には拷問王に成り果てたのか。
その要因こそが副題にもある「道徳感情」なのだ。人間の本性の一部をなす「道徳感情」は、進化の過程で生存により適するために獲得された心の性質だ。それは、仲間を救っておけば、自分が危難に遭ったとき助けてもらえるという互恵的心性に根ざしている。しかし、この経験的に得られた性情が言語によって抽象化、一般化されたときに社会的サンクションに変化する。「道徳感情」の発現形態だ。
「道徳感情」はときとして短絡に走り、自己破壊的に作用してしまう。そして冤罪事件の背後に、この「道徳感情」の暴走がある。というよりも、著者によれば、そうした人間の本性を最も明確にあぶり出すのが冤罪なのである。「市民の間に盛り上がる囂々たる空気」、サンクションを求める感情が無辜を獄に投じるのだ。
本書の描き出すプロットを大掴みで、かつ駆け足で紹介すると以上のようになるが、この本の格別の面白さは実のところ細部にある。
例えば吉川澄一技師の先駆的プロファイリングの方法にかなり紙幅が割かれてある。また二俣事件捜査における拷問や調書捏造を内部告発した山崎兵八刑事の慧眼と勇気と執念に深く感じ入っている。法曹政治家、清瀬一郎や日本法医学の草分け的存在でありながら幾多の冤罪事件で鑑定を行った古畑種基など、いわば“脇役”にも過当と思えるほどスポットライトが当てられている。
論点も豊かに含まれている。プロファイリング、憲法、ベイズ統計、認知バイアス、「システムの人」、仏教、公平な観察者(インパーシャル・スペクテーター)から金融緩和政策まで。
曰く「金融引き締めによるデフレは、投機バブルで儲けたいかがわしい企業に正当な罰を下す。だが、こんなことを続ければ、健全な企業や銀行も巻き込まれて倒産し、経済全体を破壊することになる。多くの人々が失業して飢えと貧困に喘ぐという悲惨な状況を招く」。それなのに「『金融緩和は投機という悪魔的な所業に新たに息を吹き込む恐れがある』ため、たとえ大恐慌という破滅的な悲劇を繰り広げても」、金融引締めを「やり抜かなければならぬ」という「道徳感情」に駆り立てられて、妄動するのだ。
このメカニズムは、最近では新型コロナウイルス感染症(COVID‐19)の世界的流行に対し、いかにその拡大を防遏するかという政策選択の場面でも作動した。限定的で必ずしも確実ではない医学的所見にのみ基づいて、営業の自由や移動の自由などの私権を過剰に制約し、他方で社会経済に重大な悪影響を及ぼす政策が罷り通ってしまったのである。この施策は世論調査で計測される衆望によって支えられていた。
大衆は自らを縛り、貧しくする規制を歓呼して迎え入れたのである。その背後には、感染症罹患の恐怖、狭い合理性への過大な期待、感染の可能性をゼロにせんとする潔癖志向など、人々を認知バイアスへと導く誘因があった。
新型コロナの感染は生命に対する根源的脅威であり、徹底的に排除しなければならぬ絶対悪であるという「道徳感情」が、政策の是非を総合的、相対的に判断する「偏りなき観者(インパーシャル・スペクテーター)」の視点を曇らせていったのだ。
一方で「道徳感情」の暴走は、新型コロナ罹患者等への偏見や差別を助長し、「自粛警察」と俗称される、自粛要請に従わない者を私的に取り締まったり、まつらわぬ者に私的制裁を加えたりする個人や集団を続出させた。
新型コロナ問題は、「道徳感情」がなお私達を誤らせていることの証左となったのである。
さらに著者は、善と悪とが場合によって反転し、世界が複雑に入り組む様相をむきつけに表す。
読者はまさにラビリンスに迷い込んだような印象すら持つかもしれない。しかし、この迷宮が精密な世界模型なのである。
2021年4月