「人材」という言葉がちょっと苦手だ。社会に広く根付いた言葉だし、自分だって使うこともあるが、どうもこの言葉には人をスペックだけでとらえているようなニュアンスを感じてしまう。使えるか使えないか、そんな限られた側面だけでしか人間をとらえていないような。
だから「高度外国人材」という言葉を目にした時はドン引きしてしまった。高度外国人材とは、簡単に言えば、「学歴や年収が高くて年齢が若く、学術研究の実績や社会的地位を持ち、日本語が流暢でイノベイティブな専門知識を持つ外国人」のこと。日本政府が高度外国人材と認定した人には、在留中にさまざまな優遇措置が与えられる。
それにしてもなんと「上から目線」な言葉だろう。まるでお上が「オレたちのお眼鏡にかなう優秀なガイジンだったら、日本に住まわせてやってもいいぜ」とでも言っているかのようだ。
そこへきて本書のタイトルは、『「低度」外国人材』である。一瞬ドキッとさせられる。もちろんこれは著者の造語だが、「低度外国人材」とは、先ほどの国の定義を裏返せば、「学歴や年収が低く、日本語はろくに喋れず専門知識もない、非熟練労働に従事する人材」ということになるだろう。
2019年末で在留外国人数は293万3137人と過去最高を記録した。内訳をみると、高度外国人材と専門的・技術的分野の就労資格(この中には中華料理店やインドカレー・レストランの料理人なども多数含まれる)を持つ在留外国人の数は約40万人で、全体のわずか7分の1でしかない。
一方で増えているのは、技能実習生と留学生だ。
技能実習制度は、建前では技能の習得を目的に来日した外国人の若者に実習を行う制度だが、実質的には慢性的な人手不足に悩む非熟練労働現場で、外国人を安く働かせる都合の良い仕組みとして機能している。また、留学生の中には、就労目的で日本にやってくる人も多く、こうした人々も安い労働力として使われる。実際には、政府が欲しがるようなハイスペックな人材とは真逆の人々が大勢やってきているというのが現実なのだ。
本書は「低度外国人材」と位置付けられてしまうような人々の実像に迫ったルポルタージュである。著者の外国人に対するスタンスは独特だ。ひと言で言うと、とにかく彼らとの距離が近い。
外国人労働者問題の言説はほとんどパターン化している。「外国人を排斥せよ」と声高に叫ぶか、搾取される気の毒な人々として同情するか、おおむねこのふたつに分けられる。著者はそのどちらにも与しない。
排斥論も同情論も外国人を自分たちとは異質な「向こう側」にいる人々としてとらえているが、著者には外国人の傍で一緒に立っているようなところがある。つまりは隣人である。だから彼らに親身に接する一方で、時には本気で怒ることだってある。
たとえば、あるベトナム人女性の依頼で、ハノイの技能実習生送り出し機関に突撃した時のこと。近年、日本にやってくる技能実習生の多くはベトナム人である。彼らは母国で仲介業者に多額の借金をして来日し、受け入れ先で非人道的な扱いを受けることも多い。この女性も送り出し機関に騙されたと主張していた。実習生が受け入れ先から逃亡するのを防ぐため、手数料とは別に違法に保証金を納めさせていたというのだ。
ところが、送り出し機関の幹部を追い詰める決定的な場面で、彼女は逃げ出してしまう。著者が後を追うと、なんと外でボーイフレンドとヘラヘラしながらいちゃついていた。他人に助力を頼んでおきながらこの態度。著者でなくとも彼女にはイラっとさせられてしまう。
あるいは、実習中に重傷を負った中国人男性のケース。受け入れ先を相手取った裁判では、良心的な日本人弁護士のサポートによって多額の賠償金を勝ち取ることができた。ところが帰国を前に、著者が弁護士に挨拶に行くのかと男性に尋ねると、「別にいいんじゃないの」と素っ気ない態度。これにカチンときた著者は、「いやいや、これだけお世話になった方なんだから」「気持ちの問題ですよ、ちょっとした菓子折りでも果物でもいいから持って」などと、つい差し出がましく意見してしまう。
取材対象の前で著者が思わず感情を露わにするくだりを読みながら、自分はこんなふうに外国人と向き合えるだろうかと思った。一個人として彼らと向き合い、良いところも悪いところも含めて丸ごと受け止めるような、人間らしい付き合いがはたして出来るだろうかと。
私たちの周りには、当たり前だが、いい人もいれば、ダメな奴もいる。もちろん他の国も変わらない。にもかかわらず、こと外国人となると、私たちの見方が「排斥」か「同情」かの2択に硬直してしまうのはなぜだろう。
その点、著者の眼差しはしなやかだ。だからこそ、「低度外国人材」の実像が、「かわいそうな外国人労働者」というステレオタイプに決しておさまらないことにも気づく。
ちなみに、先ほどのベトナム人女性を、ある新聞社も取材していたが、掲載された記事では、彼女をなんとかして「健気な弱者」として描こうと苦心した跡が見て取れたという。著者とこの新聞社のどちらが外国人労働者の実像をとらえているかは明らかだ。
実際、彼らの中には、驚くほど怠惰だったり、自ら望んで不法滞在者になったり、逆に同胞を搾取する側に回ったりする者もいる。技能実習生や偽装留学生の問題を調べ始めると、関係者全員が「ろくでもない」という構図にしばしば直面すると著者は述べる。深く考えずに多額の手数料を払ってしまう実習生も(手数料が高いほどいい仕事を紹介してもらえると考えるらしい)、そこに群がり「中抜き」しまくる業者も、末端で彼らを安くコキ使う企業も全員がどうしようもない。これを著者は「東アジア規模での巨大な合成の誤謬」と表現する。
外国人労働者の増加は今後も続くだろう。かつて主流だった中国人がベトナム人に替わり、ベトナムの次はカンボジア、その次は……。このように、より貧しい国から情報感度の低い労働者を連れてきては使い捨てる「移民の焼畑農業」が繰り返される。このろくでもないサイクルはすぐには止められそうにない。
その一方で、外国人との軋轢も増えていくだろう。中国語に堪能で、外国人コミュニティをディープに取材してきた著者でさえ、どうしようもない外国人を前にすると不快感を覚えるという。大切なのは、著者がこの感情を直視していることだ。不快な感情を攻撃性に転化させたり同情心にすり替えたりせず、なぜ不快感が生じるのか、その理由や背景を見つめている。著者の態度はフェアであり、誠実だ。
本書を読みながら、森本あんり氏の『不寛容論』を思い出した。
宗教的迫害が繰り返され、不寛容が幅を利かせていた草創期のアメリカで、「不愉快な隣人」とどうすれば共存できるかという試行錯誤の中から、寛容の哲学が生まれた。人は狭量さから逃れることはできない。だがそこに「最低限の礼節」があれば、私たちは異質な他者とつながることができるとこの本は教えてくれる。
困っていれば手を差し伸べ、それはおかしいと思えば意見する。著者もまた「最低限の礼節」をもって外国人に接している。友情はこのような関係から生まれるのかもしれない。