あと1年少しで定年を迎える。その後は、『こぐこぐ自転車』以来、勝手に師匠と仰いでいる英文学者・伊藤礼先生の『ダダダダ菜園記 明るい都市農業』を片手にちっさい畑での農業にいそしもうと思っている。あこがれの、晴耕雨読、ときどき物書き生活。
もうひとつ、秘かにイグ・ノーベル賞を狙った研究をおこなうつもりだ。もうネタは決まっている。どう測定するかがちょっと難しいのだけれど、かなり面白い仕事になるはずだ。そのお手本になりそうなのが、この『ヘンな科学 “イグノーベル賞" 研究40講』である。
毎年のようにその受賞が報道されるので、イグ・ノーベル賞のことはご存じの方が多いだろう。1991年に創設された「人々を笑わせ考えさせた業績」に与えられる賞で、もちろん、その名が示すようにノーベル賞のパロディーだ。その中から、比較的最近の受賞対象を、それも、笑えるモノを選りすぐってあるだけあって、むちゃくちゃおもろい。
付け方が上手いので、タイトルを見ているだけでえらく興味がそそられる。全体が5つのパートに分けられているので、それぞれについて紹介していこう。まず Part 1は『いつか何かの役に立つ!?』だ。
『命を救うブラジャー』、『花粉症にはキスが効果的』、『話が長い人を黙らせる機械』、『いびきを改善する楽器』など、どれも素晴らしい(ような気がする)が、いちばんよさげなのは『ジェットコースターで尿路結石が通る』だ。
ジェットコースターで結石が落ちたという患者の経験談からの発案である。3Dプリンターで尿路のシリコン模型を作り、尿路結石患者の尿路系を忠実に再現。それを使って、ディズニーワールドのジェットコースターで研究した。その結果、前方座席より後方座席の方が効果的であること、そして、理想的なのは『速く、荒く、ある程度ひねりや回転があるが、逆さまになったりしないもの』と結論づけられている。ビッグ・サンダー・マウンテンがええらしい。どんだけ本気で実験したんですか…
『ハンマー投げと円盤投げ、目が回るのはどっち?』という、まったくどっちでもええような研究から、『空と満タンのビール瓶、凶器としてより危険なのは?』という反社会的組織では極めて実用的と思われるタイトルまで並ぶ Part2『風変わりな大発見』だが、生命科学者としてのイチオシは『ネズミはオペラを聞くと寿命が延びる』である。
拒絶反応が生じるような心臓移植をしたマウス、なんと『椿姫』を聞かせると免疫系に抑制がかかって長く生きられるというのだ。通常8日くらいで死ぬのが、『椿姫』だと26日、モーツァルトで20日になる。すごい!しかし、エンヤだと11日程度の微増でしかないし、『津軽海峡・冬景色』だと効果がゼロらしい。どういうこっちゃねん、石川さゆりが嫌いなんか!ちなみに、これは帝京大学医学部からの論文である。頑張れニッポン!素晴らしい。
Part3『生き物の不思議な生態』を読むと、確かに不思議であふれている。『ニシンはおならで会話する』、『キツツキが頭痛にならない理由』、『哺乳類がおしっこにかける時間はだいたい同じ』、さらには『バッタは「スターウォーズ」を見ると興奮する』-特にダース・ベイダーらしい-とか、知らずに死ぬ訳にはいかないトピックスが目白押しだ。なかでも特に知っておきたいのは、『オスとメスの性器が逆転した虫』である。
トリカヘチャタテというブラジルの洞窟に住む3ミリほどの小さな虫なのだが、メスがオスの「膣」に「陰茎」を差し込んでロックオン。40~70時間もかけて交尾するという。ちなみに、この研究で受賞したのも日本人研究者である。すごいぞニッポン!頑張れちゃちゃちゃっ!!
トリカヘチャタテ、発音は「とりかえちゃたて」だ。この学名は「とりかへばや物語」から付けられているから旧仮名遣い。なんとおしゃれな。
恐ろしさが漂うのは『研究者はやってみた』という Part4だ。たしかにやっている、やりまくっている。『セルフで行う大腸内視鏡検査』(これも日本人医師の受賞です)、『死んだトガリネズミを丸飲みしてみた』くらいで驚いてはいけません。『研究のためならハチにも刺される』は、アイデアや研究の簡単さと我慢強さ、実用性も含めてた総合点で、紹介されているすべての受賞の中でも最高だと断言したい。
からだのどこがハチに刺されたらいちばん痛いかについての研究である。25カ所を選んで、ハチをピンセットでつまんでその位置に持っていく。針をしっかりと貫通させて5秒待つ。書いてるだけで痛い。それぞれ8回、38日間に約200回刺されたらしい。その結果、いちばん痛いのは小鼻と唇、それから、陰茎のシャフト(先端より下の部分)であることが明らかになった。通常の状況では、陰茎のシャフトなど刺されることはなさそうだから、ハチが近づいてきたら、とりわけ小鼻と唇には刺されないように気をつけましょう。
ここまで読むともうおなかがいっぱいの感じがしてくるけれど、あとひといき、『極めてピュアな好奇心』と題された Part 5には、『ネコは液体か?』という哲学的命題から、『妊婦さんはどうして前に倒れないのか?』、『なぜバナナの皮を踏むと滑るのか?』という日常生活に密着した題材まであって飽きさせない。
いやぁ、おもろい。ただ、こういう本を書くのは相当に難しいと思う。面白がらせなければならいのだが、書き手があまり面白がりすぎたらあかんからである。著者の五十嵐杏南さん、初めての本らしいが、インペリアルカレッジロンドンでサイエンスコミュニケーションの修士号を取得というキャリア。さすが、レベルがちゃいますな。今後の作品がむっちゃ楽しみです。しかし、この本、なんで総合法令出版から出てるんやろ。
タイトルは『ヘンな科学』だが、どれも、ちゃんとした査読雑誌に掲載された論文であるし、研究者も至極まともである。たとえば、Part5の『タマネギを切ると目に沁みる理由が意外と複雑だった』というハウス食品のグループからの論文はあの Nature に掲載されている。さらには、超伝導を用いてカエルの空中浮遊を実現したロシア生まれのオランダの人物理学者アンドレ・ガイムは『マグネットでカエルを浮かばせてみた』で受賞した10年後に、グラフェンの研究でこともあろうにノーベル物理学賞に輝いているのだ。
『ヘンな科学』どころか、わたしから言わせれば、これぞ科学だ。健全な好奇心から疑問に思ったことを考え抜き、方法論を駆使して検証する。役に立つとか立たないとか関係ない。イグ・ノーベル賞がある限り、科学は永遠に不滅である。って、よう知らんけど。
この本の著者、トーマス・トウェイツもイグ・ノーベル賞の受賞者です。内藤順のレビューはこちら。
やぎになってみたトーマス・トウェイツは、その前にゼロからトースターを作ってます。レベルたかっ。文庫版の解説はこちら。
伊藤礼先生は、チャタレー裁判で知られる作家・伊藤整のご子息。高齢になられてから自転車に目覚め、都市農業に従事。人生のお手本です。