本書は、Harnessed: How Language and Music Mimicked Nature and Transformed Ape to Man(BenBella Books, 2011)の全訳である。著者のマーク・チャンギージーは、カリフォルニア工科大学、レンスラー工科大学でキャリアを積んだ理論神経科学者。しかし彼の活動はアカデミズムの枠にとどまらず、科学者として得た知見を製品開発につなげる起業家としての顔も持つほか、小説を出版したり、展覧会をキュレーションしたり、テレビ番組に出演したりと、実に多彩な顔を持っている。
本書の原題、ポイントは「Harness」という言葉が持つニュアンスだ。この語は名詞だと「馬具」や「革ひも」を意味するが、動詞では「The dam harnesses water power」といった使い方をする。日本語に直すと「ダムは水力を利用している」としか訳しようがないが、この「利用」の背後には、「自然の力をうまく利用する」というニュアンスがある。つまりこれは、「ヒトをヒトたらしめる言語や音楽が、いかに自然の力をうまく利用して きたか」についての本なのだ。
どういうことか。その意味するところを明らかにする前に、本書がいわば「続編」として書かれていることを押さえておかなければならない。本文中でもたびたび言及があるように、本書が出版される二年前、チャンギージーはThe Vision Revolution: How the Latest Research Overturns Everything We Thought We Knew About Human Vision (邦訳『ヒトの目、 驚異の進化──視覚革命が文明を生んだ』、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)という本を世に送り出している。この本でチャンギージーがとりあげたのは、ヒトの視覚をめぐる 四つの「なぜ」だ。すなわち「ヒトの目はなぜ色を知覚する能力を発達させたのか」「なぜ人間の両眼は前向きについているのか」「なぜ錯覚が生じるのか」「なぜヒトは文字を読むことができるのか」である。
四つの議論のすべてを追うことはできないので、ここでは本書の序章でも触れられている「文字」に関する議論だけを紹介しておこう。
チャンギージーによれば、私たちが文字で書かれた文章をものすごいスピードで処理できるのは、それがものに似ているからだ。複数のものが隣接していたり、部分的に隠れていたりするとき、輪郭線は互いにさまざまな仕方で結合する。逆に言えば、その結合部分のパターンを見れば、ものがどのような仕方で配置されているかが分かる。ところで、世界中の言語で用いられている文字は、要素に分解していくと、実はこうした結合部分にあらわれる特徴的なパターンから作られている。つまり文字は、私たちが自然界を認識するときに用いている能力をそのまま転用できるようにデザインされているのだ。こんなびっくりするような議論を、チャンギージーは、諸言語の文字における特定のパターンの出現頻度を自然界におけるそれと比較するなどの手法を用いて、あくまで科学的に実証していく。
このような前著の議論を踏まえれば、「Harness =自然の力をうまく利用する」の意味はもうお分かりだろう。私たちが進化の過程で手に入れたと思っている本能は、実はもともと自然の中で培われた脳の機能をうまく再利用して、転用したものにすぎないのだ。このような仮説はチャンギージーひとりの奇想では全くない。たとえば、チャンギージーがしばしば引用する神経学者スタニスラス・ドゥアンヌは、これを「神経回路のリサイクル」と呼んでその説を裏付けている。
チャンギージーが本書で試みているのは、こうした「転用」のプロセスを、視覚だけではなく聴覚的な活動についてもあてはめてみることだ。ヒトをサルから区別するとされる二つの能力、すなわち「話し言葉」と「音楽」。それらは本当にヒトが新たに獲得した能力なのか? むしろ、「Harness =自然の力をうまく利用する」ことによって獲得した、再利用の産物なのではないか?
まず「話し言葉」から。チャンギージーは、人間の話し言葉が、固体の物理現象によって生じる音に似ていることを指摘する。その物理現象とは、「ぶつかる」「すべる」「鳴る」。私たちの耳が自然界で聴いている音は、つきつめるとこの三つの現象によって生じる音から構成されており、言葉は、それらを聞き分けるために私たちが獲得した能力をうまく転用している、というのだ。
たとえば、tell とsell。これらが韻を踏んでいると感じられるのは、その音が、同じ物体が立てる二つの異なる音に対応しているような印象を受けるからではないか、とチャンギージーは言う。最初に無声の破裂音が来るtellは、物体が何かにぶつかってその音が共鳴して鳴っている感じ。対して無声の摩擦音が来るsellは、同じその物体が何かの上をすべってその音がやはり共鳴して鳴っている感じ。録音した音を逆再生すると不自然に感じられるのは、「鳴ってからぶつかる」のような自然界ではありえない物理現象に対応した音になってしまうからだそうだ。
度肝を抜かれたのは、文末のイントネーションについての説明である。なぜ私たちは平叙文の末尾で音を下げ、疑問文では上げるのか。チャンギージーの見立てでは、秘密をひもとく鍵はドップラー効果にある。音源が自分の横を通過するとき、通過直前で音は低くなり、通過直後から音は高くなっていくように聞こえる。この下がって再び上がるパターンこそ、文の終わりと再開を示す印に対応しているのではないか、というわけだ。逆に疑問文は、音源が自分に向かって迫ってきているときの聴こえ方である。そのような場合には音は高くなっていくように聞こえるからだ。人間の耳がドップラー効果を聞き取る精度は非常に高いらしい。救急車のサイレンや電車のような極端な音源でなくても、私たちは無意識的に音の高低を感じ取ってものの移動を把握しているのだそうだ。
次に「音楽」。チャンギージーの推理は、音楽を人間の動作音と結びつける。たとえば、曲の最後でテンポがゆっくりになるのは、人間が動作を止めるときにそのような特徴を持っているからである。ボールがバウンドしていくときを想像すれば分かるとおり、ものの場合にはそうはいかない。むしろ静止の直前は間隔が短くなり、速度は速くなるからだ。拍子はもちろん、人が歩くときの足音である。実際、拍子と拍子のあいだにある音の数は平均一個で、歩くときに手や足が立てるノイズの数と同じ傾向があるとチャンギージーは指摘する。
重要なのは、こうした議論全体を通して、チャンギージーの文化観が明らかになってくることだ。これは、あくまでヒトの視覚の進化の問題として書かれていた前著では強調されていなかった論点で、たいへん興味深い。
チャンギージーは、文化と人間は「共進化」の関係にあるのではないか、と言う。なぜ、原始時代のホモ・サピエンスと現代のヒトが、生物学的には同じ体を持つにもかかわらず、全く異なる存在に見えるのか。それは人間をとりかこむ文化が、ヒトが新たな能力を獲得したように見えるような仕方で進化したからなのである。ランがハチドリの形に合わせて進化し、ハチドリがランの形に合わせて進化したように、文化が、人間の能力に合わせて話し言葉や音楽を生み出し、そのことがこれまでにない人間の能力を引き出している。文化も生命体のようなものだ、とチャンギージーは言う。文化と人間は、ともに相互作用しながら進化している。そう、文字通りの環境としての自然がそうであるように。文化は自然界を模倣している。
自然と文化のパラレルな関係を知ったからだろうか、本書を読み終えたあとに覚えたのは、本文の内容とはむしろ逆向きの錯覚だった。それが文化のルーツだと思うと、逆に物音がしゃべっているように聴こえたり、ヒトの足音が歌っているように感じられたりする ようになったのだ。自然が文化に聴こえる。もちろん、パラレル関係の痕跡は私たちの意識ではとらえようもないものなので、あくまで錯覚でしかないのだが。
いま、自宅の二階でこの原稿を書いている。窓の外では、風が物干し竿をゆらし、自転 車がガタガタと走り去り、お年寄りが歩行器で散歩し、遠くでは工事現場の物音が響いている。私はそのどれも実際に目にしたわけではないが、自転車のカゴに固いものが入っていることや、お年寄りが歩行器を左右に振る癖があることを、ありありと感じ取ることができる。目の見えない人が聴覚で世界を感じ取るように、私たちの耳も、見えていない出来事を見る力を持っている。なぜ、私たちの耳は、こんなにも世界の音に吸い寄せられるのだろう。環境が私たちの体を粘土のように捏ねている、そんなちょっと不気味なイメージがうかぶ。
2020年10月
伊藤亜紗(東京工業大学准教授・美学者)