妻の何気ない「自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ」というひとことに、私は10年ものあいだ「本当に?」「どうして、なぜ?」と問い続けました。そして同時に湧き上がった疑問。
「なぜ、他の人は目の前にあることを不思議に思わないでいるのだろう」
この研究を通して出会った保護者や支援者の多くは、この現象について「どうしてだろう?」と疑問に思ってくれました。ところが、専門家にとっては〝地域での臨床経験があればあたりまえ〞のことだったりして、研究者には〝どの理論で説明できるか〞ということがひっかかったようでした。この現象を多くの人が知っていたのに、なぜ不思議だと思わず、今まで誰もそのメカニズムを解明しようと考えなかったのでしょう。
研究者や専門家といわれる人々(私もですが)は、自分の専門や関連領域について多くの知識をもっています。私も大学に勤めていた時は教育相談にこられたお母さんに「それはASDのお子さんによく見られる行動で◯◯と呼ばれています。その行動の背景には△△の機能の弱さが考えられます。ですから……」と説明してきました。
ですから自閉症の方言不使用という現象を聞いたときに、真っ先に「ASDの発話の音声的特徴が主な原因だ」と主張したのです。私だけでなく、知り合いの研究者の多くがこの説で説明できると考えていました。しかし、多角的な全国調査の結果は、その説明では論理的なパズルが完成しないことを示しました。何がこのような間違いを生んだのだろうと今も考えています。
この研究を進めていく中で、多くの研究者や専門家に話を聞きました。みなさん、私と同様に自分の持っている専門知識や既存の学術理論でなんとかこの現象を説明しようとしました。しかしその研究者たちは説明しきれないところがあることを〝説明〞してくれませんでした。中には「そもそも言語発達の理論から考えて、そんなことはありえない」とコメントされた方もいました。しかし、理論ではありえなくても、現象は現実に〝ある〞のです。なぜでしょう。
確かに専門家はそれぞれの領域の〝専門家〞です。心理学、医学、言語学、社会学。でも研究対象とされる人や子どもたちは、『今は心理学上で解釈されるべき人です』、『今は医学上で説明されるべき子どもです』、『今は……』と切り取られる存在ではありません。このテーマを研究していくうえで全体性としての〝人〞が生活の中で示す行動をある一方の専門領域で解釈することには限界があるとしみじみ思いました。
その気づきから心理学のエリアを越えて、方言研究者や言語学者の助言を得る旅にでることにしたのです。結果として心理学を専門とする私にとって当初は思いもよらなかった方向に道が開けました。単行本の発刊後には、音響音声学や深層学習などの研究者たちから反響や意見があり、さらなる展開へと広がっています。みなさんが「なぜ? どうして?」と疑問を持ちながら、それぞれの知識や実体験を提供してくださったのです。
学術的に導かれた理論や専門知識は世界を理解するうえで重要なものです。しかし、現実にその場にいて目の前の相手と向き合ったなかで得られたリアルな知識や経験を、「それは理論とは違うから間違っている」と断じることは研究者自らの認識を狭く閉じ込めてしまうことになるのかもしれません。先行研究や学術論文に書いてあることだけが事実であるかのように信じ、それこそが研究に値する崇高なテーマだとすることにも疑問を感じるようになりました。未来を切り開く研究テーマはリアルな現実に疑問をもつことに始まるという考えもあるのではないでしょうか。
今回のテーマ「自閉症は津軽弁を話さない」の追究は、研究者である私が自らの知識を過信し、現場の人の持っている経験知や感覚を軽視しそうになったところを踏みとどまらせてくれた歴史です。現実にその場に生きる人々の経験に関心を留めて研究し考え続けることが、ASDの言語習得にとどまらず、言葉を用いる〝人〞という存在を理解することになるのではと考えるようになりました。
そういった思いから、今回この本を手に取ってくださった方には研究テーマや研究手法にも興味を寄せていただけたら幸いです。また、妻との10年喧嘩の顚末も笑ってお楽しみいただけるのであれば夫としてもありがたく思います。(文芸WEBマガジン「カドブン」2020年9月17日掲載)
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今年、続編が出ています。松本先生、さらなる謎に挑んでいます。