職場のそばにわりと大きめの書店がある。いつの頃からか売れ筋の棚に「反日」や「愛国」を打ち出した本ばかり並ぶようになった。百田尚樹はその棚の常連である。一昨年出版された『日本国紀』もいまだに棚の一角を占めている。『日本国紀』は関連本をあわせ累計100万部を突破したというし、『永遠の0』や『海賊とよばれた男』のようなメガヒット作品もある。百田はいまもっとも売れる本を出す作家だ。
ネットでもその存在感は大きい。ツイッターのフォロワー数は約46万で、その発言はしばしばネットニュースになる。中国や韓国をボロクソにけなしたかと思えば、新型コロナウイルス対策で安倍首相を痛烈に批判する。リベラル陣営はそのたびに苛立ったりざわついたり翻弄されながらも発言から目が離せない。百田がインフルエンサーであることは衆目の一致するところだろう。「百田尚樹」は、いまやその固有名を超えて、ひとつの「現象」であると言っていい。
本書はこの「百田尚樹現象」とは何かを解き明かす試みである。その試みを通して、私たちがうまく言葉にできなかった「モヤモヤの正体」が見えてくる。なぜこれほどまでに社会の風通しが悪くなってしまったのか。自分の考えを述べるだけなのに、なぜこんなにも窮屈なのか——。本書を読み終えた時、視界が開けた場所に出たような開放感を味わえることを約束しよう。こんな本を待っていた。本書は私たちが必要としている「社会の見取り図」を与えてくれる好著だ。
百田尚樹はもともと放送業界では有名な人物だった。大学時代に素人ながら朝日放送の人気恋愛バラエティー『ラブアタック!』の参加者として人気を博し、大学を中退してテレビの世界に飛び込むと、全盛期には視聴率30%を誇ったお化け番組『探偵!ナイトスクープ』のチーフ構成作家として活躍した。小説家としてデビューするのは50歳になってからである。
『探偵!ナイトスクープ』は一言で言えば、視聴者から寄せられた依頼を「探偵」に扮したタレントが解決する番組である。この視聴者の依頼を涙あり笑いありに仕立てるのが構成作家の腕の見せ所だ。結果は分刻みの視聴率として現れる。盛り上げようと意図したところでちゃんと数字が上がっているか。上がっていなければ、演出意図が視聴者の感覚とズレていたのではないか。熾烈な視聴率争いの中、百田は移り気な大衆の心をつかむ技術を磨いていった。
優れた放送作家であるということは、優れた「職人」であるということだ。
百田尚樹という人物を考える上で、この「職人」としての顔は見過ごせないポイントである。『月刊Hanadaセレクション 百田尚樹永遠の一冊』という本に百田の家族による座談会が掲載されているのだが、この中で驚いたのは、百田が小説を原稿の段階で家族に読ませ、どんなに厳しい意見や指摘をもらっても「そうか、なら書き直すわ」と何度も修正しているというエピソードだ。そこにあるのは、読者の心をつかむためならどんな苦労も惜しまない「職人」の姿である。
著者は本書で百田本人に長時間のインタビューを行っているが、横柄な態度は一切なく、冗談を連発しては周囲を笑わせる「大阪のおっちゃん」そのものだったという。「粗雑な発言をする人物」というイメージとは違い、「ごく普通」の感覚の持ち主であることがインタビューからも伝わってくる。だがこれだけでは「百田尚樹現象」の本質は見えてこない。
ここで著者はひとつの視点を導入する。現代の「百田尚樹現象」の淵源はどこにあるか、そのはじまりを突き止めるために歴史を遡るのだ。その転換点は、1996年にあった。この時代に何があったか。自虐史観の克服を唱える「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーたちが旗揚げの記者会見を行ったのがこの年だった。
著者は「つくる会」の創設メンバーの藤岡信勝、小林よしのり、西尾幹二の3名に丁寧なインタビューを行っている。このインタビューが本書の白眉と言っていい。なぜなら彼らのインタビューから「つくる会」がいかにその後の日本社会に大きな影響をもたらしたかが見えてくるからだ。この隠れた影響に光を当てたのは著者の功績だろう。
詳しくは本書を読んでほしいが、ここではひとつだけ重要なポイントを挙げておく。著者がインタビューした3名はバックボーンがまったく違う。もともとはリベラルな教育学者だった藤岡、人気漫画家の小林、ドイツ文学者として知られる西尾。重要なのは、経歴が異なる3名が、それぞれにとっての切実な動機のもとに「つくる会」の活動に関わっていったということだ。つまり「つくる会」への参加は、各自の人生と分かちがたく結びついた行動だった。
彼らは自らを、朝日新聞や当時の文部省などの権威に立ち向かう少数派と位置付け、主に出版を通じて「ごく普通」の人々に向けて支持を訴えていった。『国民の歴史』(西尾幹二)や『戦争論』(小林よしのり)はベストセラーになり、社会の右サイドに新しい市場があることを認知させた。これらの構図は、現代の「百田尚樹現象」にも受け継がれている。
だが「つくる会」と「百田尚樹現象」との間には、ある決定的な違いがある。
批評家の故・加藤典洋は、『永遠の0』を取り上げた論考で、百田作品の本質を見事に剔出してみせた。2011年3月11日以降の日本社会は「感動社会」であるとし、百田尚樹という作家は、人を感動させるためならイデオロギーすらも道具として利用する新しいタイプの作家であると指摘したのだ。
藤岡や小林や西尾は「つくる会」に実存的に関わったが、百田にとってイデオロギーや政治信条は着脱可能なものだ。そこに重みはない。かつての「つくる会」の創設者たちにあった「情念」は抜け落ち、敵を見出し、反権威を唱えるスタイルだけが生き残り「ごく普通」の人々に浸透していった。百田はそんな大衆の望むものを汲み取り、職人的な技術で「感動の物語」に仕上げ提示し続けている。
読みながら「サブカルチャー」という言葉が浮かんだ。いまや思想もジャーナリズムもサブカルチャー的な感性に覆われている。そこではあらゆる意匠が歴史的文脈など関係なしにデータベース的に引用可能だ。
「つくる会」から「百田尚樹現象」への変化——。それは、言葉がより軽くなり、思想が中心を欠いた空虚なものとなっていくプロセスといえるかもしれない。著者が描き出す私たちの現在地の姿には愕然としてしまう。この状況を表すのにもっともふさわしい言葉は、「劣化」である。
だがこの本は決してニヒリズムでは終わらない。
本書の終わりに著者が向かうのは、岩手県遠野市である。この旅には意表を突かれた。まさか遠野の地に、私たちが未来に向かうためのささやかなヒントがあろうとは。著者のこのセンスには脱帽させられた。
ただ、このように軽やかに歴史的文献を渉猟し、自説に柔軟に取り込むところは、著者もまたサブカルチャーの時代の書き手であることを示している。だが著者のように曇りのない眼で対象を見るならば、サブカルチャー的な感性はむしろ長所となることを本書は教えてくれる。私たちの社会に欠けているのは、意見が異なる相手のことを偏見なく知ろうとする姿勢だからだ。
著者には既にネットメディアの記者時代に書いた記事をまとめたデビュー作があるが、今後、名刺がわりになるのはむしろ本書の方だろう。ノンフィクションの世界に、新世代の書き手が登場したことを喜びたい。