『性転師』知られざる性転換ビジネスの裏方
「アテンド業」の実態に迫る
「性転師」とは、性別適合手術を受けるために海外に渡航する人を手助けする「アテンド業」に携わる人々を指す。もちろん正式な職業名ではない。本書の造語である。
「師」という字は、詐欺師や地面師といったなにやら怪しげな仕事を連想させるが、著者はこの言葉に、医療従事者でもないのにリスクを伴う手術に一民間人が関わらざるを得ない状況を込めたという。グレーな領域に関わる仕事であることを強調するために、あえて怪しい響きを持つ言葉を選んだということなのだろう。
共同通信社の記者である著者が、取材を通じてたまたま坂田洋介という人物と知り合ったことが、本書が生まれるきっかけとなった。大阪で「アクアビューティ」という会社を営む坂田は、実はアテンド業のパイオニアだった。
もともとはファッション業界の人間で、アパレルのデザイン会社を起こし、いまや懐かしいトラサルディのジーンズなどを手掛けていたものの、ビジネスがうまくいかなくなり、2002年から美容整形手術をタイの病院で受ける人々の仲介をするようになった。洋服の買い付けで出かけた折、現地の繁華街で出会ったきれいな女性たちが、口々に同じ美容整形の病院の名前を挙げるのに、商売人としてのアンテナが反応したのだ。
電光石火で現地の病院との提携をまとめ、ホームページを立ち上げた。だが予想外の問い合わせが相次ぐ。それは「性別適合手術はできるか?」という問い合わせだった。坂田は戸惑いながらも、性同一性障害の人たちの言葉に耳を傾け、自らも性別適合手術について調べた。そして文字通り手探りで現在のアテンド業のスタイルを作り上げて行くのである。
日本では2004年から手術を受けるなどの条件を満たせば戸籍上の性別を変更できるようになり、近年は毎年1000人近くが法的性別を変更しているという。男性器から女性器に変える手術では、渡航費や宿泊費とパックで100万円程度がかかる。女性が子宮や卵巣を摘出し、最終的に陰茎まで形成するとなると3回の渡航が必要で、計300〜400万ほどかかるという。
アテンド業者は旅行会社や現地の病院と連携し、渡航から帰国までをサポートして仲介料を取ることで利益を得る。坂田のように2000年代初めに参入し、試行錯誤でサービスを作り上げてきた「第一世代」の他に、現在では手術を経験した当事者が立ち上げた「第二世代」の業者も加わり、ビジネスの規模はより大きくなっているという。著者は彼らへのインタビューをもとに、アテンド業の実態を明らかにしていく。サービスのあり方や顧客への向き合い方などでスタンスの違いはあれど、彼らの仕事に対する姿勢は、怪しさとは対極にあるものだ。もちろんどの業界にも言えることだが、信用できない業者もいる。本書はそうした実態を余すところなく描いている。
ところで、性別適合手術はおおきく2つに分けられる。
男性から女性になるMtF(Male to Female)手術と、女性から男性になるFtM(Female to Male)手術だ。
男性から女性になるMtF手術の場合、主に2つの方法が採用される。ひとつは「反転法」と呼ばれ、ペニスの皮の部分を裏返して体内に入れ込み、膣の代替を形成する方法。もうひとつは「S字結腸」と呼ばれ、腸を活用して膣部分を作る方法である。どちらもペニスの亀頭部分にある神経を残してクリトリスの代替を作るため、「性感」は残るという。
一方、FtM手術では、胸と性器を作り替えなければならない。詳細は本書を読んでいただきたいが、「陰茎形成」の方法には驚かされた。まず腕や脚にペニスの表皮として使える十分なスペースを見つけ、ここに尿道の代替となる医療用のシリコン製チューブを埋め込み、なじませる。十分になじんだところで、皮膚とチューブを一緒に薄く剥いでいき、ペニスのベースとして取り出し、皮膚を巻きつけるように縫合してペニスを形作り、それを股間部分で尿道と繋ぐという。こちらも性感は得られるが、勃起や射精はできない。
性別適合手術は、古くは性転換手術と呼ばれていた。世界で初めて性転換手術を受けたのは、1930〜31年に男性から女性への手術を受けたデンマーク人画家のアイナー・ヴェゲネルとされる(女性名のリリーをもとにその生涯が2015年に『リリーのすべて』として映画化された)。日本でも1953年に男性から女性への手術を受けたケースが報道されている。だが、1965年に男娼に性転換手術を施した医師が優生保護法違反などの容疑で逮捕された「ブルーボーイ事件」をきっかけに、性転換手術は一挙にタブー視されるようになってしまう。
この事件以降、国内では手術がおおっぴらにはできなくなり、海外で性転換手術を受けるケースが報じられるようになる。1973年にモロッコで手術を受けたカルーセル麻紀は有名だ。日本ではこの間、一部の医師による「ヤミ手術」が行われていたようだが、その詳細は不明。90年代には大阪の「わだ形成クリニック」の和田耕治医師のように、性同一性障害に苦しむ患者のために、あえてヤミ手術に踏み切る医師もいたが、正式な手続きに則った国内初の手術は、1998年に埼玉医大総合医療センターで原科孝雄医師らによって行われた手術だった。
この手術をきっかけに、日本国内で複数の医療機関が手術を手がけるようになったが、海外の医療機関と比べ、この「30年分の遅れ」は大きかった。本書の中で、医師にタイに行くことをすすめられた患者の証言が出てくる。この医師によれば、性適合手術では、タイを大学生とすれば、日本はまだ小学生レベルだという。それほど技術力に差があるのだ。
日本で手術が普及しない理由は他にもある。
2018年4月から性別適合手術に公的医療保険の適用が認められるようになった。これ自体は朗報だったが、ガイドラインで手術の前に必要と位置付けられたホルモン治療が保険適用外になるなど、制度設計のまずさが壁となっている。
また日本では、戸籍の法的性別を変えるために性別適合手術が実質的に必須条件になっていることも、WHOなどの国際機関から批判されている。「心身にリスクを伴い、経済的負担も大きい手術を強制するのは、トランスジェンダーへの人権侵害である」というわけだ。実際、「手術なしの性別変更」はいまや世界的潮流である。
性自認(ジェンダーや生まれつきの性別についての認識)をめぐる人々の価値観は、いま劇的に変化している。本書で初めて知ったのだが、「性同一性障害」という言葉も今後は使われなくなるかもしれない。WHOは2018年、29年ぶりに国際疾病分類を改定し、性同一性障害を「性別不合(Gender incogruence)」という名称に置き換えた。しかも、これまでは精神疾患に分類されていたものが、それよりも下位に分類された。つまり「性別不合」は、世界では「ごく当たり前のこと」になりつつあるのだ。
本書から見えてくるのは、これらの変化に日本が追いついていない現状である。
性転師は、まるでこうした日本と世界とのギャップを埋め合わせるために現れたような存在だ。私たちの意識が変わり、「性別不合」に誰も違和感をおぼえない社会になった暁には、やがて消えゆく運命にあるのかもしれない。時代の谷間に一代限りで咲いた花のような職業の貴重な記録である。
かつて和田医師に手術を受けて女性になった人物に話を聞いたことがある。彼女は涙ながらに、いかに和田医師と出会って人生が変わったかを語ってくれた。