アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせである──よく耳にする言葉である。しかし、組み合わせの新しさにも程があるだろう。本書は新約聖書の物語を、なぜか広島ヤクザ風に語り直して紹介し、それらを題材とした美術作品の読み解き方を教えてくれる一冊なのだ。
かの有名な「最後の晩餐」のシーン。イエスは周囲の面々にこう告げる。「言うとくがの。この中にわしのことを密告(チンコロ)するヤツがおる」。
また有名な山上の垂訓のシーンでは、こんな言葉も飛び出す。「右手のエンコ(指)を要求してくるなら、左手のエンコもくれてやらんかい」。
これまでにも「カップ焼きそばの作り方を文豪たちが書いたら」のシリーズや、「アップル製品の広島弁バージョン動画」など、文体と内容のミスマッチが生み出すエンターテインメントには数々の名作と呼ばれるものがあった。
しかし本書の組み合わせには、もう少し深みがあるように感じる。宗教とヤクザ、この一見無関係な両者を結びつけているのは、人間社会の基盤にある極めて世俗的な部分である。宗教もヤクザも「言う人」と「信じる人」との人間関係があって、初めて成立するものなのだ。
考えてみれば、この構造は、ビジネスやコミュニティーでも同様だ。いかにイノベーションやテクノロジーを叫ぼうとも、根底にあるのは人間同士の仲間意識である。そういった意味で本書は、宗教とヤクザの用語を入れ替えながら、組織の論理、つまりは組織論を説いたものと捉えることもできるだろう。
固い絆で結ばれた組織には、はたから見ればおかしなところが多々あるものだ。極めて常識的なふるまいをする人間同士の間に、固い絆が生まれることはおそらくないのではないか。また逆説的ではあるが、固い絆で結ばれた組織であるからこそ、裏切りや内輪もめも発生する。だからこそ組織の論理が必要になるのだ。
一方で、本書の聖書美術という要素はある意味、マーケティング論と捉えることができるだろう。アートの最大の利点は言葉や時代の壁を容易に越えられることである。組織の外部の人間を内部へ引きこむためには、マーケティングの力が必要である。どのようなイメージ戦略が、空間や時間の壁を越えられたのか。そういった観点で眺めていくのも一興だ。
もはや説明不要かとは思うが、キリスト教がユダヤ教やイスラム教と決定的に違うのは、キリスト教だけが神の姿を絵画や彫像にしてきたということだ。おまけにイエスの苦しみが大きいほど贖罪(しょくざい)も達成されるというロジックは、絵画にどこまでも残酷さを求めることになった。
これら2つの要素は、さぞかし芸術家の創作意欲を刺激したことだろう。ある意味、二次創作をうまく活用した戦略ともいえる。本書では、「洗礼者ヨハネの斬首」「嬰児(えいじ)虐殺」といったエピソードに対し、数々の作家がまるで大喜利でも行ったかのようなイメージで、美術作品が紹介されていく。
ヤクザと宗教とアート、出合うはずのなかった3者による奇跡のコラボレーション。同時発売された旧約篇も併せて読めば、より理解が深まることだろう。
※週刊東洋経済 2020年5月23日号