新型コロナウイルス禍でスポーツイベントが次々と中止になっている。
春の選抜高校野球も残念ながら中止の憂き目にあった。甲子園でプレーするのを楽しみにしていた子どもたちは気の毒だが、その一方で、当たり前のようにあったものがなくなったことで、これまで放ったらかしにされてきた様々な問題を、あらためてゆっくりと考える時間ができたのではないだろうか。
たとえばそのひとつが「野球界にはなぜ暴力が蔓延しているのか」という問題である。特に高校野球では、毎年のように暴力事件が報じられる。これは勝利至上主義の強豪校に限った話ではない。昨年12月、日本学生野球協会は高校の不祥事10件の処分を発表したが、多くは全国的に無名の学校だった。
野球には苦い思い出がある。
幼い頃から野球に夢中で、貴重な左利きということもあって、少年野球からずっとピッチャーだった。あれは中学2年生の時のことだ。新チームになって初めての試合で、ぼくは先発を言い渡された。相手チームのエースは地域でそれなりに知られた好投手で、同じサウスポーだった。
試合前、そいつがぼくの投球練習をじっと見ていた。その値踏みするような視線にムカついて「やってやる」と気合を入れたのがそもそもの間違いだった。完全に力んでしまったのだ。プレーボールの後、ストライクがまったく入らない。フォアボールやデッドボールを連発し、あっという間に先制点を献上してしまった。普通ならピッチャー交代の場面だが、その年に数学教師として赴任してきたばかりの青年監督は、試合をぶち壊したぼくにキレて、マウンド上でさらしものにしたのである。
あれは地獄だった。チームメイトの刺さるような視線を背中に感じながら、焦れば焦るほど、まるで投げ方を忘れたように、ボールがあさっての方向に行ってしまう。阪神の監督だった金本が藤浪投手にした仕打ちと同じである。正直、あの時どうやって初回を終わらせたのか記憶にない。ひとつだけ覚えているのは、あの日を境に、イップスになってしまったことだ。その後、懸命に練習してアピールもしたが、監督が二度とぼくを起用することはなかった。
いま振り返ると、当時はケツバットだのスパイクで蹴られるだのは日常茶飯事だったし、炎天下での練習中に水を飲ませないのも普通だった。選手も監督もそのことに疑問すら抱いていなかった。著者は東京六大学の立教大学野球部でプレーした経験を持つ。法政や明治、早稲田などに比べると、立教は強いチームではなかったが、1年生から4年生まで全員が入ることを義務付けられた寮生活では、暴力が罷り通っていた。細々としたどうでもいいルールが定められ、ちょっとでもミスをすると連帯責任にさせられた。時には上級生の気まぐれで罰則が課されることもあったという。
もし職場で上司が部下を殴ったら、普通の会社では大問題になる。だが野球界ではなぜか「愛のムチ」などという名で暴力が許される。ブラック企業のような環境がむしろスタンダードだ。そこには「強くなるには厳しい指導が必要」と暴力が肯定される風潮すらある。なぜ暴力を根絶できないのか。「暴力なしで強くなる方法」はないのか。本書はそんな問題意識から書かれた一冊だ。
この本にはさまざまな球歴を持つ指導者や関係者が登場する。WBCで日本代表として活躍した選手もいれば、甲子園常連校の指導者もいる。彼らの証言から見えてくるのは、野球と暴力の結びつきは、いくつもの要因から生まれるということだ。
たとえば監督の存在が大きすぎること。野球の監督にはサッカーのようなライセンス制度がない。指導者としての適性があるかどうかもわからないまま、勝てば名監督と持ち上げられる。そうして監督の権限はどんどん肥大化していく。
甲子園の存在があまりに大きくなり過ぎていることも要因のひとつだ。甲子園に行くためなら暴力にも耐えなければならないと選手も思い込んでしまっている。これはメディアの責任も大きい。痛みを我慢して連投する選手を「熱投」などと美談仕立てにするのはいい加減やめるべきだろう。
ただ、こうした話はこれまでも指摘されてきたことで、特に目新しいものではない。本書の中でも面白いのは、不祥事による出場停止から復活した学校の話である。前任者の後を受け新しく指導者になった者は、従来のやり方を見直すところからスタートしなければならない。「暴力なしで強くなる」にはどうすればいいか、答えの用意されていない問題に手探りで取り組んだからこそ、彼らの話は示唆に富む。
ひとつだけ紹介しよう。選手が自分で考える力を養うにはどうすればいいか。ある監督は、ローテーションで練習を休ませ、部員たちにアルバイトをさせることを試みた。すると、以前よりも練習の効率が上がったという。それだけではない。これまで学校とグラウンドしか知らなかった選手が、大人たちと接することで明らかに変わったという。お金を稼ぐことの大変さを学び、野球以外にも大切なことがあると気づいた。「どっちがしんどい?」と聞くと、それまで練習がつらいとこぼしていた生徒から「練習のほうがいいです」と返ってきたという。
丸坊主をやめ髪を伸ばして甲子園で活躍したチームもあれば、「暴力一切なし」の放任主義を掲げ甲子園で準優勝した監督もいる。これらの指導者に共通するのは、「自分の言葉を持っている」ということだ。そういえば先日亡くなった野村克也さんも言葉の達人だった。言葉を鍛えるには、普段から野球や子どもたちのことなどについて深く考えていなければならない。不勉強な指導者は自信がないのだろう。だから高圧的にふるまうしか能がないのだ。
残念なことに、定期的に明るみに出る暴力事件に対して、日本高校野球連盟は何の対策も打ち出せていない。そもそも一部の生徒が問題を起こしたからといって、部全体に出場停止処分を課すこと自体どうなのか。「連帯責任」という名の思考停止は、日本の組織の悪弊ではないだろうか。
野球も社会の一部である。だとするならば、監督に服従するのではなく、選手が自発的に考えプレーする「暴力のない野球」が主流になった時こそ、日本社会が大きく変わったと言えるのかもしれない。その日が遠くないことを願う。
近年、改善されてきたとはいえ、柔道も時代遅れの価値観に支配されてきた競技のひとつである。柔道界で勇気ある発言をするのはいつも女性だ。JOC理事の中でいち早く東京オリンピックの延期に言及した山口香さんもそのひとり。
「筋トレ思考」とは勝利至上主義や競争主義などの硬直した思考のこと。スポーツの意義は本来、しなやかな身体知を身につけることにあるのではないだろうか。