舞妓さん? 京都で歩いているのを見たことがあるかな。そう、多くの人にとっては、観光の景色のひとつか、映画の世界だろう。そこになんと、リアルな舞妓さんの世界を京都5ヶ所、東京7カ所、ほか全国各地を含め合計25カ所の花街で追究し、写真満載で紹介する豪華本が登場だ!
掲載された写真は、ざっと数えて630点は優にある(地図と図版を入れるともう少し増える)。しかも、大方はプロのカメラマンの手によるもので、美しい。しかもこの溝縁ひろしさんは、花街を撮り続けて45年だという。やっぱり美しい花は綺麗な写真で見たいもの。
元は、文科省の助成を受けて科研費で花街を研究した成果だそうで、その後、著者4人(執筆者は他にも5人おり、計9人)が興味を持って全国各地を調べていった結果をまとめたのだという。歴史人類学、日本美術史、日本音楽、日本文化史、を専門とする4人だ。おそらく研究と趣味をこじらせて(失礼!)の手弁当での旅だったのではと想像している。取材先の情報は、何度も足を運ばないとここまで聞き出せないだろう。
この本が素晴らしいと感じたポイントは大きく2つある。
ひとつは「花街の仕組み」を街ぐるみで網羅して伝えている点だ。
花街が昔のままにシステムとして残っているのはやはり京都なので、まず、5つの京都の花街(祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東)を筆頭に、街が紹介される。
演奏や舞を披露する「場」を提供するお茶屋や料亭の存在、芸妓を育成する置屋、手伝いをする男衆、舞妓や芸妓を呼ぶ客、着付けや髪の専門家、道具作りを支える職人の技術、などの文化や経済的な環境として花街が紹介されていくのだ。これほどプロフェッショナルが存在するのかと驚くほどだ。芸妓がひとり商売をするには、かなりのバックアップが必要なのである。
もうひとつのポイントは、テレビでも本でも、京都、やっても東京に偏りがちな花街の紹介を、全国に広げている点だ。東京は葭(芳)町、新橋、赤坂、神楽坂、浅草、向嶋、八王子、他に全国は北から、盛岡、山形、新潟、金沢、名古屋、奈良、大阪、高松、松山、高知、徳島、博多、長崎で計25箇所、と網羅している。
縦にも横にも詳しく、といえるこの2点において、ここまで達成した類書はそうないと思う。
それゆえに全体的な花街の趨勢も見えてくる。花街は明治期に勃興した経済力を背景にできあがり、昭和初期には規模としては全盛期を迎えた。つくづく残念なのは戦争で、都市の中心にあったがために消失した花街も多かった。戦前は全国に500箇所以上あり、人数も、例えば東京・新橋は昭和初期に700名もいたという。京都は別として、軒並み戦火で縮小してしまったのだ。求めるエンターテイメントが変わってきたこともあるのだろうけれど、壊れるのはなんとあっけないことなのか。とはいえ、高度経済成長期には盛り返したようで、平成に転換期がまたあり、現在は高齢化や後継者問題が共通の悩みのようだ。そんな日本史の思わぬ側面もあぶり出されるのである。
と、時代と共に規模縮小傾向の花街ではあるが、京都の花街は戦火を免れたこともあり、意気揚々、文化と経済をまだまだ回している印象だ。
少し中身をのぞいてみよう。
そもそも「舞妓」とは、半人前の若いあいだを指し、一人前になると「芸妓」と呼ばれる――ただし、呼び名は土地によって芸者、芸妓となり、舞妓は舞子、半玉、雛妓、お酌など、異なる。本書では、この一人前になるまでが、京都の各街を舞台に、丹念に写真満載で紹介されていく。
まず置屋に住み込みとなり、「仕込みさん」として1年ほど、化粧はせず、洗濯や掃除、お姉さん方の身の回りの世話から、舞や三味線のお稽古に行儀作法習いにと勤しむ。
試験に合格すると「見習いさん」に。伸ばした髪を「慣らし髪」として「割れしのぶ」にし、帯は「だらり」の半分なので「半だら」だ。特定の見習いのできるお茶屋のお座敷に、先輩と一緒に上がって修行する。
その後、花街の一員となる「店(見世)出し」というハレの日を経て、舞妓に。修行を積んで、4〜5年ほどすると「襟替え」の上、やっと芸妓である。髪型や着物(襟)が変わるのはこの時だ。何より大きな違いは、それまでは全て置屋の支えであったのが、スケジュール管理から生活費まで全て自前のフリーランスになること。置屋との関係は強いままだが、ほんとうのプロは舞妓さんではなく、芸妓さんなのである。
と、舞妓が一人前になるまでだけで何ページもが費やされている。置屋、待合、料亭のみならず、着物、かつら、かんざし(着物も当然そうなのだが、季節ごとに違う! 12ヶ月のかんざしがずらり並ぶ写真など、ため息が出る)の作り手、大事な道具である三味線の楽器屋、髪結いの美容室、着付けをする男衆、と、同じ調子で紹介されている。ここでは舞妓さんがいつも大変そうな「おこぼ(ぽっくり、等とも呼ぶ)」という履物と、夏の風物詩「京丸うちわ」について、お借りした写真でお見せしよう。
地方各地の花街も個性豊かで面白い。それぞれの街の歴史と共に「花」が咲いたことがよくわかる。
そうそう、名古屋の「金の鯱(しゃちほこ)」というお座敷芸の写真には、目を剥いた。両腕と肩頬を畳につけて、着物の裾を足の間に入れて逆立ち、この姿の2人が並び立ってのしゃちほこ……。名古屋には我が道を行くユニークなマインドを時々感じるが、芸も半端ではない。写真を見たときに「えっ!?」と叫んでしまった。
新潟の試みも堅実にユニークだ。新潟といえば、明治期には北前船の海運業と稲作で日本一の経済力を誇った時期もある。その頃は旦那衆も羽振りが良かったようで、花街も大いに発展した。その後、昭和の終盤に芸妓の人数が減少し、存続の危機となったため、株式会社を設立。芸妓の要請、派遣をする柳都振興株式会社だ。取り組みは、文化、観光資源として花街を守る新たな可能性として業界の注目株らしい。
ちなみに、近代に経済力を持った都市で花街が発展していること自体、当たり前といえば当たり前なのだが、その視点で見るとまた面白い。例えば東京・八王子は、養蚕業で経済的に潤った(明治期には、現在の16号線で横浜まで運ばれ、輸出された)ため、その頃に花街が広がった。やはり存続の壁にぶちあたるも、平成11年になんと、「芸者を募集」の奇策で花街を復活させている。この20年で芸者数は20名になったとか、行ってみたい。
他の街も含めて観光客の呼び込みにも熱心なようで、東京では浅草を筆頭に、誰でも参加できる催事も多いのでぜひ調べて行ってみてほしい。
181ミリ×257ミリ、厚さ23ミリの、272ページ。全員で練り歩いたともあり、凄まじい取材をもとにした一冊だ。読み終わったときに「おつかれ様でした」と著者たちに声をかけたくなった。おつかれさま……! 地図や歴史書を片手に、旅に行く際の予習としても良いかもしれない。
外を出歩けないこのご時世に、という以前に、花街で遊べるチャンス自体が人生にそうはない。とはいえ人生はどうなるかもわからない。来るかもしれないお茶屋遊びの日に向けて、本で学んでおこう。
京うちわの写真:提供 小丸屋住井
他写真:@Hiroshi Mizobuchi