立花隆といえば、誰がなんと言おうと言おうまいと『宇宙からの帰還』である。立花隆の最高傑作というだけでなく、日本のノンフィクションとして、他を全く寄せ付けない、世界に通用する空前絶後の作品だと断言できる。
1983年に出版されたその本以来、立花隆の本を何冊読んできたかわからない。それに、露出の多い人なので、ある程度のことは知っていると思っていた。しかし、この本を読んでみてわかった。ほとんど知らなかったということが。
単なる好奇心に満ちた「知の巨人」ではない。権力を恐れる必要はない、という教えをキリスト教徒であった母親から学んだ、こわいもの知らずの武闘派である。まずは、幼少期を北京で過ごした後、ただひたすら歩いた記憶しかない引き上げ体験が語られる。
あの体験の影響がすごく大きいと思うのは、その後の人生で、どんな大きな状況変化に出会っても、平気なんですよ。
小学校時代はIQテストでとんでもなく高い点をとり、高校時代は旺文社の全国模試で一位になる。とんでもない才能の持ち主が、本を読みまくる。質・量ともに圧倒的だが、文学作品ばかりであった。ノンフィクションを読み始めたのは、東大の仏文を出た後、文藝春秋に入社し、週刊文春に配属されてからのことだ。
それまで小説ばかりを読みふけっていた自分の読書は何だったのだろうと深刻な反省を迫られました。文学偏愛者というのは、この世に無数に存在している価値ある書物群の大半をまったく知らない人ではないかと思った。
この自伝を読んでいて面白いのは、なにかをきっかけにした、極端ともいえる立花隆の振れ具合である。デスクに勧められて読んだのは筑摩書房の『世界ノンフィクション全集』。1960年からという大昔の刊行なので知らなかったが、編者は中野好夫、吉川幸次郎、桑原武夫と超豪華だ。
そのリストがじつに素晴らしい。『世界最悪の旅』、『さまよえる湖』、『コン・ティキ号探検記』、『微生物の狩人』、『翼よ、あれがパリの日だ』、『悲しき南回帰線』、『チベット旅行記』、『ちょっとピンボケ』、『マッターホルン登攀記』、『流れる星は生きている』。この十冊のタイトルを見ただけで卒倒しそうだ。この全集で立花隆が「転向」したのもむべなるかな。
このまま雑誌記者を続けるとバカになるからと、東大の哲学科に学士入学する。そこで、ウィトゲンシュタインを知り、記号論理学や科学哲学などに触れ、興味の方向性が大きく変わる。当時は、雑誌『ヤングレディー』のライターで稼いでいたが、そのとき一緒に働いてくれた取材記者に、後に芸能ライターになる梨元勝や硬派ノンフィクションライターになる鎌田慧がいた。って、どんだけレベルが高かったんや。そして、同じ頃の『文藝春秋』や『諸君!』での仕事の多くは科学者や研究者相手の取材であった。
取材で何がいちばん必要かといえば、「質問力」です。サイエンス系の取材の場合、質問力はどれだけ準備したかに比例します。
<中略>
理系の人は一般に質問にちゃんと答えようとします。質問に曖昧なところがあったら、まずそこをはっきりさせようとする。だから曖昧でいい加減な質問にはすぐ反問がくる。
こういったことは、地質学者・井尻正二に鍛えられたところが大きいという。井尻のことはまったく知らなかったが、専門の地質学だけでなく、生物学や絵本まで非常に多くの本を著した傑物である。
そのようにして鍛えられた「質問力」が遺憾なく発揮されたのが『宇宙からの帰還』である。何しろ、日本一のノンフィクションだ。もし、読んでおられない方がおられたら、ぜひ一読をお勧めしたい。
僕の興味の中心は、宇宙体験という、人類史上もっとも特異な経験をした宇宙飛行士たちは、その体験によって、内的にどんな変化をこうむったかということでした。人類が百七十万年間もなれ親しんできた地球環境の外にはじめて出るという体験は、それがどれだけ体験者自身に意識されたかはわからないけれども、体験者の意識構造に深い内的衝撃を与えるにはおかなかったはずだと考えたのです。
米国の宇宙飛行経験者全員に自ら手紙を出すところから始まった取材は、ものの見事に成功し、ベストセラーになる。飛行士の多くが「こんなことを聞かれたのは、はじめてだ。よく聞いてくれた」とか「いままで人に充分に伝えられなかったことを、やっと伝えられたような気がする」と語ったという。質問力の極致ではないか。
個人的な好みでいくと、『宇宙からの帰還』と『サル学の現在』、そして、利根川進との対談『精神と物質』の三冊に尽きる。有名なのは『田中角栄研究』をはじめとする一連の本かもしれない。しかし、立花自信にとっては、田中角栄関連の本などは自己満足度の低い仕事であったという。そして、田中角栄および田中角栄的なものに対する批判は、何も恐れることなく強烈だ。
もう一人、敬愛する「知の巨人」である出口治明氏は、常々、人間が賢くなるのは「人・本・旅」であると説かれる。「賢くなる」などという言い方はおこがましいが、立花隆を育てたのも明らかにこの三つだ。本と人はここまで書いたとおり。そして、旅の影響も極めて大きい。引き上げ体験が「旅」にはいるかどうかは微妙だが、それ以外に三度大きな旅をしている。一回目は、1960年、まだ海外渡航が禁止されていた時代に、連合王国で開かれた国際青年核軍縮会議に出席のためカンパを集めて渡航し、半年にわたってヨーロッパを周遊する。帰国後、「物事がまったく以前と違ってみえてきた」ほど、20歳での体験は人生で最大の勉強だった。
旅で経験するすべてのことがその人を変えていく。その人を作り直していく。旅の前と旅の後では、その人は同じ人ではありえないのです
二回目は1972年で、イスラエルから中近東とヨーロッパ各地を9ヶ月、三回目の74年は中近東からインドにかけて3か月の旅だった。いまやISに破壊されてしまったパルミラ遺跡の美しさにうたれ、キリスト教の土着性に気づき、イスラエルではテルアビブ乱射事件の岡本公三に単独インタビューをおこない、帰国後にはイザヤ・ベンダサンこと山本七平のイスラエル論を撃破した。
新書にしては分厚い目で400ページ強、「人、本、旅」のどれをとっても読み応えたっぷりだ。食欲、性欲と並んで、知識欲が人間の本能的欲求だとする立花隆の考えが大好きだ。
人間の肉体は、結局、その人が過去に食べたもので構成されているように、人間の知性は、その人の脳が過去に食べた知的食物によって構成されているのだし、人間の感性は、その人のハートが過去に食べた感性の食物によって構成されているのです。
立花隆にはまったく及ぶべくもないが、優れた知的食物や感性の食物を食べ続けていかなければならないのだと痛感した。この本、立花隆の著作を読んだことがある人だけでなく、これから「人、本、旅」で学んでいく若い人にこそぜひ読んでもらいたい。知的人生のヒントにあふれている。
不滅の名著。未読の人はぜひ!
内容的には少し古いけれど、二人のつばぜり合いが面白い。