告白しよう。評者はずっと、なるべく他人と関わりたくないと祈りながら生きてきた。楽しいことも悲しいことも何も経験したいと思わない。誰かと揉めたり争ったりするなどもってのほかだ。人生の糧になる? 知るか。全部ストレスだ。願いは一つ、社会的接点を一切放棄して、永遠に寝床で布団にくるまっていたい……。
こんな暗い感情を披瀝したところで会話が盛り上がるはずがなく、賛同が得られるわけでもなし、むしろメソメソうるさい奴だ、望みどおり早く消えればと思われておしまいだ。だから本書を読んだとき、やっとこの始末に負えない思いを打ち明けられる、と晴れやかな気分になった。助かった。自分の抱えてきた鬱屈はすべて思想家エミール・シオランが書いてくれていた。本書は、彼の人生とそのペシミズム、ニヒリズム思想を噛み砕いて紹介した、息苦しくも元気の出てくる入門書である。
手始めにシオランの生涯をざっくりと記しておこう。生誕は1911年、ルーマニア中部トランシルヴァニア地方の小村。中産階級の家庭で育ち、14歳頃から哲学と文学の読書に耽るようになる。ショーペンハウアー、ドストエフスキー、パスカル、ニーチェ、カント等々。ブカレスト大学に進学してからは毎朝大学図書館に来て10時間ぶっ続けで哲学の本を読む生活を送った。
また、彼は在学中から執筆活動を始め、奨学金を得てドイツやフランス・パリに留学もする。パリで、サルトルとボーヴォワールが議論のために通い詰めたカフェでサルトルの隣に座り一言も喋らず煙草の火を付ける係をしていたという逸話が面白い。
第二次大戦終結後は伴侶シモーヌと共にパリに腰を落ち着け、貧困と病に悩まされつつ『崩壊概論』『苦渋の三段論法』『実存の誘惑』といった著作を発表する。1987年の『告白と呪詛』発売後には秘密裏にノーベル文学賞の打診を受けたが固辞。晩年はアルツハイマー病を発症し、1995年に他界。シモーヌは彼の死後発見された『カイエ』を編集し、1997年、出版社に原稿を渡したのちに水難事故で死去する。
さて、シオランの思想である。正直、本書の項目はどれも興味深いのだが、ここでは彼のニヒリズムがわかりやすい第一部一章「怠惰と疲労」と三章「衰弱と憎悪」を簡単に紹介しよう。
まず「怠惰」。シオランは労働拒否と怠惰礼賛を一貫して主張してきた。彼の言葉を引用してみる。
一般に人間は労働過剰であって、この上さらに人間であり続けることなど不可能だ。労働、すなわち人間が快楽に変えた呪詛。もっぱら労働への愛のために全力をあげて働き、つまらぬ成果しかもたらさぬ努力に喜びを見出し、絶えざる労苦によってしか自己実現できぬと考える――これは理解に苦しむ言語道断のことだ。
実際、シオランは一年間だけ高校教師を勤めたことがあるのみで、ほぼ定職には就いていない。執筆活動でさえ億劫で(第一、朝ベッドから起きたくなくて涙が出そうになる)、書いた本も売れないからパートナーに寄生していたも同然だった。
しかし彼は怠惰を「あらゆる美徳より高貴」とまで褒め称える。
私たちに健全な部分があるとすれば、それはすべて私たちの怠け癖のたまものである。行為に移ることをせず、計画や意図を実行しようとしない無能力のおかげである。〈美徳〉を養ってくれるのは、実現の不可能性、あるいは実現の拒否だ。そして、全力を出し切ろうとする意志こそが、私たちを暴虐へ誘いこみ、錯乱へと駆り立てるのである。
どういうことか。著者はこのように解説する。社会は、物事へのたゆまぬ努力や全力での取り組みを礼賛するが、その行動は時として殺人のような悪の行為にも共通する。怠け者は悪に手を染めることなど皆無である、だって「疲労」するし。行為と行為の衝突にも関わらずに済む。
よって怠惰とは、暴虐とは全くの無縁で、善行をせずとも善行をしているというわけだ。だいたい、これは善だ正義だと言いながら他人を平気で傷つけたり踏みにじったりする事例が世の中には散見されるではないか。怠け者万歳である。まあ破滅の道なのだが。
シオランの言葉をベースに、著者はさらに論を展開する。逆に言えば、この世界で成功を納めたければ「憎悪」を活用するのが手っ取り早い。敵を出し抜き、凌駕し、破壊する。憎しみがもたらすエネルギーは無尽蔵だ。敵対感情を動機に据えるのはおかしい? でも我々は政治や歴史の舞台のみならず、日常生活でもさんざん対立や闘争を見てきたし、面白がってもきただろうに。
であるから、シオランが奨励するのは「衰弱」だ。誰とも争いたくなければ自分のために頑張ることも出来ず、他者の承認も得ようとしないつまらない人、すなわち衰弱人間こそが真に自由でどんな他者にも寛容な生き方を体現しているのだ。
だが、悲しいかな、世界が怠け者やつまらない人間で満ちはしない。嫌々ながら社会と折り合いをつけていく。そして、どのように生きても成功と失敗を問われ、病気や挫折に苦しみ、死ねば無に帰す。やっぱり人生はむなしい。しかしシオランはこうも述べる。
生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる。
ネガティブが凝縮されたような言葉だが、見ようによってはかなりポジティブでもある。つまり、人生に意味はないのだから、生きても死んでも意味はなく、死ぬ理由にならない。目的がないから目的を達成できない苦悩を味わうこともないのだ。
このように見てくると、シオランは悲観と冷笑をまき散らしながら、実のところ生を楽しんでいるように思えてくる。事実、あれこれ言いつつ84歳まで生きている。著者はそんな彼を、「失敗した、挫折した、中途半端な思想家」で、「だからこそ、彼は素晴らしい」と評する。シオランは自身のペシミズムの実践と追究という点で失敗した。皮肉にも、その思索は呪いに溢れながら、人生のつらさやむなしさへの対処が書かれた処方箋ともなっているのだ。綺麗事は微塵もない。だから我々一般人でも親しみやすく、不思議な活力が湧いてくる。
著者は1987年生まれのルーマニア思想史研究者で、大学時代にシオランの本と出会い虜になり、彼の故国ルーマニアに留学してしまうほど影響を受けたそうだ。学生の頃も今も非常に鬱々とした人間だと綴っているが、本書の書きぶりは軽妙かつ丁寧で、とても気配りが利いているのが心地良い。
断っておくと、本書はオプティミズムを否定するものではない。常に前向きで楽天的に生きられたらどんなに幸せなことか。もがけばもがくほど沈むような底なしの悲観にとらわれたとき、本書は一縷の光となること請け合いである。とりわけ、どんなに楽観視できるファクトを積まれても前途に絶望してしまう人には、必携だ。