大人になってから「美味しい」と感じたものの一つがようかんだ。子供の頃は和菓子、特にようかんには全く魅力を感じなかったが、ある日、濃いお茶とようかんに目覚めた。
『ようかん』は株式会社虎屋の資料室、虎屋文庫が編纂した類書なしの「ようかん全史」である。
おなじようかんでも、虎屋のものはありがたさが違う。カラーページには、ようかんの切り口に四季の景色や虎斑模様、月の満ち欠けを映し出した、目にも鮮やかな写真が掲げられている。
ようかんのルーツは中国で、その字の通り羊の羹(あつもの)、つまり羊肉のスープのことだった。鎌倉から室町時代に伝来し、肉を禁じられていた禅僧によって小豆や小麦粉、砂糖を使った蒸し物となったという。時代には、六代将軍足利義教の饗応に使われた記録が残っている。戦国時代になると信長や家康がおもてなしに使い、武野紹鷗など著名な茶人の名前も見える茶会にもようかんが饗されていたようだ。
虎屋は室町時代後期に京都で創業し、禁裏の菓子御用をつとめてきた。東京遷都の折、明治天皇におともをして東京店を開設した。現在十七代目だそうだ。
虎屋文庫の持つ史料で、最も古く虎屋のようかんの名が見えるのは、江戸時代前期、明正天皇が父の御水尾上皇の御所に行幸した折に納めたものの記録である。五代将軍徳川綱吉の時代には広く知られるようになっていた。かなり高級なお菓子だったのだろう。
虎屋の顔ともいえる煉ようかん「夜の梅」を大々的に売り出したのが明治の末期。夏でも日持ちがすることが大きな売りとなった。
近代以降、文人にもようかん好きが多かったと見えて、夏目漱石『草枕』、森鷗外『雁』、谷崎潤一郎『陰翳礼讃』などにも登場している。
かつて小説家の北方謙三氏は自らのルーツを描いた『望郷の道』(幻冬舎文庫)を執筆する折、菓子職人の曽祖父、森平太郎が、戦前は「森永製菓」「明治製菓」と共に三大菓子メーカーとよばれた「新高製菓」を興した経緯を調べた。
創業時は和菓子屋であったという曽祖父は、饅頭やようかんをどう作ったのか。秘書をしていた私は虎屋文庫を訪ね、当時の型枠や包丁を見せてもらい煉り方なども教えてもらったことを思い出した。
いまや宇宙ステーションにもようかんが積み込まれる時代となった。古くて新しいようかんの今後が注目されている。(週刊新潮12月26日号より転載)
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『ようかん』の出版とあわせ、2019年11月1日(金)から12月10日(火)まで虎屋赤坂ギャラリーにて「第79回虎屋文庫資料展 再開御礼!「虎屋文庫の羊羹・YOKAN」展」が開催された。私も会場に足を運んだが、羊羹尽くしの展示は、みどころ満載の興味深いものだった。