本書は2018年11月に出版された、サミュエル・シュウォルツによるNo One at the Wheel: Driverless Cars and the Road of the Future(誰も運転していない――自動運転車と道路の未来)の邦訳である。
原題にある「ホイール(Wheel)」とはハンドルもしくは車輪のことで、直訳すれば「ハンドルのところに誰もいない(運転席が空っぽ)」という意味になる。もちろんこれは自動運転車を示唆したものだが、日本でも「手綱を握る」という表現があるように、英語でも「ハンドルを握る」には「管理する」という意味が含まれている。その場所に誰もいないということは、このタイトルは「(自動運転車をどうするかという課題を)誰も管理していない、できていない」というニュアンスを感じさせるものであると言えるだろう。
実際に、本書が解説する「自動運転車と道路の未来」は決してバラ色ではない。現代のクルマ社会が誕生するまでの歴史を紐解いた上で、自動運転車の車両自体の問題(技術的な可能性や安全性など)から、それが引き起こすインフラ面への影響(道路や駐車場のあり方など)、そして社会に与える影響と、数々の論点が紹介されている。
自動運転に関する本というと、普通は技術面の解説とビジネスの可能性、そして「トロッコ問題」(本書でも解説されているが、どちらを選んでも誰かを傷つけてしまうという選択肢を与えられたときに、犠牲者が少ない選択肢と多い選択肢のどちらを選ぶかという思考実験)に代表される倫理面の議論が主になることが多いが、本書では来るべき「自動運転社会」全体を俯瞰的に見る姿勢が貫かれている。
たとえば自動運転車が普及することで、道路というインフラの姿が変わる可能性が紹介されている。いまの道路の幅は、人間の運転するクルマが走ることを前提とし、多少のよそ見やミスで車両がふらついても大丈夫なように、余裕を持った広さとなっている。また人通りが多い場所や崖のそばなどでは、重大な事故が起きないようにガードレール等が設置されている。しかし自動運転車であれば、そのようなミスは起きない(もちろん機械であっても絶対ということはないが)。したがって道路の幅を狭くしたり、道路の幅はそのままで車線数を増やしたり、ガードレールや中央分離帯などを取り除いたりすることができる。
また面白いのは、路面凍結防止用の塩が撒かれる量が減るのではないかという指摘だ。雪が多い地域では、車両のスリップを防止するために、そうした凍結防止剤が道路に大量に散布される。とはいえそれは道路自体や車両にもダメージを与えるもので、いくらでも撒いてよいというものではない。しかし自動運転車であれば、凍結した路面でもスリップしないよう設定できる可能性があり、それが走ることを前提とした道路であれば、以前より凍結防止剤を撒かなくて済むというわけである。個人的な話で恐縮だが、私も以前ボストンで暮らし、冬場には自家用車が凍結防止剤で真っ白になる経験をしたことがあるため、この指摘には納得するところが大きかった。
いずれにせよ、自動運転車は道路インフラの建設・維持にかかるコストを大幅に削減し、そのあり方すら変えてしまうかもしれない。日本でも、高度経済成長期に建設した社会インフラが寿命を迎えていることが大きな社会問題になりつつある。その中で「自動運転車」という存在は、難問の解法を導く方程式の新たな変数となるだろう。つまり自動運転車が社会に与えるインパクトは、街を走るクルマがガソリン車から電気自動車に変わることをはるかに上回るものになる可能性があるのだ。
道路だけではない。都市と郊外の関係や、経済、エネルギー、環境、プライバシーに至るまで、私たちの想像以上に、自動運転車が社会を一変させる力になり得ることを本書は繰り返し指摘している。キャンピングカーサイズの自動運転車が生まれ、人々がまるで家と一緒に移動するようになるかもしれない(したがって自動運転車は環境や格差の問題に対してマイナスになり得る)という予想も紹介されているが、冗談のようでいて確かに懸念されなければならない未来像だろう。そうした見落とされがちな影響まで網羅してくれているのが、本書の魅力のひとつである。
著者のサミュエル・シュウォルツはニューヨーク市在住の交通専門家で、同市の運輸局で約20年勤務した経歴を持つ。本書でも解説されているように、その間にさまざまな交通問題に対処しており、理論に精通するだけでなく現場において自動車が社会に与える影響を目にしてきた人物だ。その経験を経て、1995年にサム・シュウォルツというコンサルティング会社を設立し、現在も交通問題や輸送ソリューションに関するサービスを提供している。最近では小規模な都市からも依頼を受け、アドバイスを行なうようになっているようだ。
このことは、自動運転をめぐる状況が急速に進みつつあることと無関係ではないだろう。 日本では、内閣のIT総合戦略本部から「官民ITS構想・ロードマップ」が発表され、毎年改定されている。この中で、自動運転の技術革新をどのようなペースで進めるかという政府の方針がまとめられているのだが、最新の2019年度版では、レベル4の高度な自動運転(システムがすべての動的運転タスク及び作動継続が困難な場合への応答を限定領域において実行)を2025年までに実現するとされている。つまりあと5年もすれば、限定された状況下とはいえ、人間のドライバーが乗っていなくても公道を走れる自動車が私たちの周囲に登場するのである。
この政府の掲げた目標に向け、各企業や研究機関において開発が進められており、18年度以降だけでも、日本国内のおよそ30の地域で自動運転の実証実験が行なわれている。またトヨタは、2020年夏をめどに、レベル4自動運転車両の一般人による試乗を東京・お台場の公道上で行なうと発表している。技術面を見れば、政府のロードマップは決して夢物語ではない。
ただ自動車に限った話ではないが、技術の進歩に対して、社会の進歩は遅れる傾向がある。カール・ベンツとゴッドリープ・ダイムラーによって、ガソリンで動く自動車が発明されたのが、今から130年以上前の1886年。そして有名な「T型フォード」が誕生したのは1908年のことだ。その後、ドイツでアウトバーンの建設が始まったのは1933年。またエアバッグを初めて搭載した自動車が市場に出たのは、1967年のことである。それからエアバッグの搭載が義務づけられるまでには、さらに年月が必要だった。本書でも語られているように、自動車という技術が発明されてから、それを有効かつ安全に利用できる(歩行者の権利が侵害されるという問題を抱えながらも)社会を、私たちは少しずつ構築してきたと言えるだろう。
だからといって、自動運転車への対応をのんびり進めてもいいということにはならないが、私たちが自動運転技術の社会に与えるインパクトを正しく理解し、それに適切な対処を講じるまでにはどうしても時間がかかる。その間に、後でもとに戻したり、あるいは取り除いたりするのが困難であったり、不可能であったりするような変更が社会や人々の意識に生まれてしまうことのないよう、私たちは十分に注意しなければならない。そうした警鐘を鳴らす一冊として、本書が広く手に取ってもらえることを祈っている。