なるほど、これが教育というものなのか。
Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school.
教育とは、学校で学んだことを忘れた後に残るものをいう
大学の医学部で教えているが、講義の最終回に伝える言葉のひとつだ。アルバート・アインシュタインの名言である。知識や情報はすぐに古びてしまうし、検索すればすぐに見つかる時代だ。大学で何を学ぶべきか。それは、考え方であり学び方でしかない。
と思ってはいるのだが、自分でそのような教育ができているかといわれると、まったく落第である。学び方を身につけろと言ってはいるが、実際には学生任せ、各自が工夫して身につけなさい、と語るにすぎない。
学生に考え方を身につけさせる。それには、自らに考えさせ、適切なアドバイスを繰り返すしかない。それも、指導しすぎない程度に導きながら。わかってはいるが、それを個別におこなうにはどれだけ時間がかかるか。とても不可能だと思っていた。しかし、オックスフォード大学ではそれがチュートリアルとしておこなわれている。苅谷剛彦氏によるこの本を読んで大きな衝撃を受けた。やろうと思えばできるということに。
学生一人か、せいぜい二、三人に教員が一人という個別指導だ。内容は想像以上に濃い。毎週、小論文を書くための問いと、それに解答するために10冊ほど(!)の著書と論文が提示され、それを資料にしてA4に10枚くらいのエッセイ(小論文)を書く。そして、そのエッセイについて教員と質疑応答や議論がおこなわれる。
この本は、そのチュートリアルの模擬講義である。第一部は、学部学生レベルのチュートリアルが示されている。一日目は、学生(模擬講義なので、実際には学生役だけど、ややこしいから学生にしておきます。先生についても同じ。)が書いてきたエッセイについて、どうしてこう考えたのかを中心に議論される。指導ではない。学生に考えさせるためのセッションだ。
それに基づいて書き直されたエッセイについての建設的な評価が二日目の内容である。学生が何を考えてどう直してきたか。自分でも気づいていなかったような思考方向を先生に指摘されたりするのかが面白い。
一回目のエッセイと二回目のエッセイも載せられている。オックスフォード大学への留学経験のある学生役・石澤麻子さんが優秀なこともあるが、読み比べると素晴らしくよくなっているのがわかる。
真剣に考え抜いてこれだけのエッセイを書くには、相当な集中力と時間を要するはずだ。おそらく、他のことはほとんどできないだろう。それが8週間で1コース。ふぅ、どれだけ濃密な教育なんだ。
自らの30年以上にわたる研究歴から気づいたことのひとつは、異なったテーマを扱う時、一見違うように見えても、それらについての思考のパターンはそれほど多くない、ということである。むしろ、異なって見える各論的な議論を、そう多くはないパターンにどう落とし込むかが考える技術だ。こう書くと簡単なように見えるが、意外と難しくて、相当な経験が必要である。
しかし、そのような考える技術は、一旦身につくと忘れることはない。オックスフォード大学でこのような教育を受けた学生は、将来、エッセイに何を書いたかの詳細は忘れても、どのように考えて書いたかはいつまでも頭にしみこんでいるはずだ。
文系、理系を問わず、問題を解くよりも、適切な問題を考え出す方がはるかに難しい。第一部の学生向けは、考えるテーマが著書や文献からほぼ与えられていたのに対して、第二部の大学院生向けチュートリアルは、課題を見つけ出すのが目的である。
学生が持ってきた三つのテーマについてのディスカッションから始まる。そのテーマについて思考を深めた時に、より一般化した問題に対して何らかの答えを出すことができるか、あるいは、方法論的に可能か、などが検討されていく。
漠然と面白そうだと思うというだけではダメなのだ。十分な意義があること、そして、自分の力でやりきれるかどうか。このあたりの見切りというのは、本当に難しい。これについても、経験を積むしかない、積ませるしかない、というふうに考えていたのだが、教育としておこなおうと思えばできるのだ。
一年間の成績を決める試験は、選択科目ごとに九つの問いが出され、その中から自分が回答する三つの問いを選んで、三時間で論述する。一科目あたり、一年間に課される本や論文の数はおよそ100冊。三科目選択なので、2~300冊になる。それだけを読みこなしながら講義やチュートリアルを受ける。遊んでいる暇などなさそうだ。
具体的な内容は本を読んでもらうしかないが、これだけ濃密な教育をおこなっているのが、オックスフォード大学の強みなのだ。おそらくケンブリッジ大学も似たようなものだろう。世界大学ランキングにはいろいろな議論があるが、両大学がトップ10にはいるのはだてではない。逆に、日本の大学が下位に甘んじているのもやむをえまい。
著者で先生役の苅谷剛彦氏は、東大教育学部の教授からオックスフォード大学の教授に転身された社会学者だ。20年以上前に苅谷氏の『知的複眼思考法』を読んで驚愕したことがある。同世代の人がこんなにクリアな思考法の本を書けるのかと。
以後、ほとんどの本を読んでいるから、ちょとしたファンである。我らが大阪大学文学研究科に金水敏教授という「役割語」の大家がおられて、結構仲良くしてもらっている。その金水さん、何かの話をしていたおりに「あぁ、苅谷は東大時代の同級生ですよ」と、偉そうに呼び捨てで言われたことがある。おぉ、そうだったのか。金水さんのステータスがその時からちょっとだけ上がったことはいうまでもない。
自分の講義で必ず紹介する言葉がもうひとつある。山本義隆氏が『磁力と重力の発見』で大佛次郎賞を受賞された時の言葉だ。
専門のことであろうが、専門外のことであろうが、
要するにものごとを自分の頭で考え、
自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。
たったそれだけのことです。
そのために勉強するのです。
オックスフォード大学の教育はこれを具現している。
思考は意外と技術なのです。
苅谷先生の本をあげてたら、きりがありません。
苅谷夫人が、あの大村はまの教え子だったというのが、またすごい。
苅谷先生絶賛の英語発音学習本。自覚的には、発音だけじゃなくてヒアリング能力もこの本で飛躍的に向上しました。