ロマン・ポランスキー監督作品『戦場のピアニスト』をご覧になったことがあるだろうか。実話を基にして作られた映画だ。私にとっては人生の中で最も感動した映画のひとつである。
舞台はドイツ占領下のポーランド。首都ワルシャワのラジオ局でピアニストをしているウワディスワフ・シュピルマンが主人公。ユダヤ人である彼はドイツ占領下のポーランドで恐ろしい迫害を経験する。彼は絶滅収容所への輸送を免れたが、つらい逃亡と潜伏生活を余儀なくされる。そんな生活が極限に達した映画の終盤で、彼を助ける男が現れる。
それがドイツ国防軍将校のヴィルム・ホーゼンフェルト大尉だ。劇中の最も重要で感動的な場面だが、シュピルマンを助けたドイツ将校の情報はあまりにも少ない。名前がヴィルム・ホーゼンフェルトであること、その後ロシア軍の捕虜となり、抑留中に非業の最期をとげたことのみが、映画では語られている。
本書はこのヴィルム・ホーゼンフェルト大尉に焦点を合わせた作品だ。ホーゼンフェルトは教師だった父の影響を受け、自身も教師となる。敬虔なカトリック教徒で愛国心が強く、第1次世界大戦で自ら志願して戦場に赴いている。
ナチスが台頭すると素朴な愛国心からナチ党員となり突撃隊に入隊。一方で教育に介入しようとするナチスの政策やユダヤ人迫害については公に批判し、党の上役と衝突することもしばしばであった。
戦争が始まると国防軍に召集されドイツ占領下のポーランドへ派遣される。社交好き、かつ快活で優秀なホーゼンフェルトは頭角を現し、下士官から将校に出世する。しかし、ポーランドでのドイツ軍の行いに憤りを抱くようになる。
一方で軍人としての彼は出世を続け、スポーツ学校の責任者となる。併設した職業訓練校などいくつかの学校の責任者にも抜擢され、教育者として若い兵士たちに人間らしく生きるよう語りかけるのだ。
ユダヤ人の虐殺が本格的に始まると、共犯的罪悪感にさいなまれてしまう。妻にはドイツ軍将校でいることについて「限界だ」と訴えている。この思いが「救済による抵抗運動」へとつながっていく。ゲシュタポに追われているポーランド人やユダヤ人の身分を偽装して、自身の運営する学校の職員として採用し、安全な隠れ家を提供している。「救える人はみんな救いたい」という思いから多くの人々を救済し続ける。彼がシュピルマンを助けたのは偶然や気まぐれではなかったのだ。
迫害、虐殺が渦巻くポーランドで、勇気を持って人々を救済したホーゼンフェルトの存在は、人間という存在がいかに誇り高くいられるかを示してくれる。
一方で本書は、狂気に満ちた人物がいったん権力を握り、官僚機構の組織力と扇動された大衆の熱狂とを強大な原動力にして、虐殺のシステムを運用するとき、個人の善意と抵抗がいかに無力であるかも教えてくれる。
イデオロギーのいかんにかかわらず、このような人物たちが権力を手に入れないように、市民はよく考え行動しなければならない。ホーゼンフェルトも初期にはナチスの支持者だったという事実がそのことを如実に物語っている。
※週刊東洋経済 2019年10月5日号