ロンドンの王立学院に通う20歳の音大生が、あの大英自然史博物館から、死んだ鳥の羽を盗んだ――なぜ、前途有望な若者が300羽近い鳥の美しい羽根を? 世にも不可思議な盗難事件の顛末を追った犯罪ルポ。ページをめくる手が止まらない、思いがけない快作登場!
世界でも有数の音楽院にアメリカから入学したフルート奏者。裕福で、整った品のいい顔立ちの20歳の青年。その青年が、世界に冠たる大英自然史博物館の分館に、夜間に忍び込み、約300羽分の鳥の羽を盗んでスーツケースに詰め込み、誰に追われることもなく電車に乗って帰宅した。
これが事件の顛末だ。
ニューヨーク、マンハッタンから、10歳の頃、北方200キロの街に移り住んだエドウィン・リストは、家の中で勉強したりフルートを演奏したり、弟と遊んだりするのが好きだった。両親はアイビーリーグ大卒で、フリーランスで執筆業に携わり、子供たちに自宅教育(ホームスクーリング、と言うらしい)を受けさせていた。エドウィンが蛇に興味を持ったと聞けば、アメリカ自然史博物館の爬虫両生類学者を生物学の家庭教師にするほどで、興味を持ったことに対しては支援を惜しまない、教育熱心で裕福な両親だ。
そんなある日、父親が執筆のために見ていたフライフィッシングのビデオ映像にエドウィンは夢中になる。フライフィッシングは、フライと呼ばれる毛針で行う釣りのことで、イギリス貴族がはじめたスポーツだ。19世紀ごろにいまの形になり、現在では世界中に広がっている。フライにはさまざまなものがあり、虫や小魚を模したものから、そう、鳥の羽を使ったものまで幅広い。
鳥の羽がトラウト用毛針に姿を変える様子に夢中になった11歳の少年は、生まれて初めての毛針を作り始め、雑誌を買い、専門店に出かけて、ほかの製作者と知り合い、その技術は上達の一途をたどり、毛針製作の競技会を制覇するほどになる。家族の応援もあり、ついには、その世界で有名な製作者となっていく。その世界に年齢は関係ないのだ。
希少な鳥類の羽を使うフライ自体がステータスになる世界があり、そのフライをコレクションすることを夢見る人もいる、未知の世界だが、19世紀の植民地時代から、欧米では希少な鳥の羽で毛針をつくる愛好家の世界があるらしい。インターネットはそのコミュニティを迅速につないでいく。もちろん現代では採集は禁止されているけれど、そんな珍しい希少な鳥ほど、その世界では価値があるのだ。
入手は極めて困難だけれど、欲しい。その世界の頂を目指す毛針界の星、この青年が行きつく先は、さあ、どこだろう。
ロンドンから電車で45分ほど揺られた先、トリングにある分館は、鳥類のコレクションで名高く、専門とする研究者の来訪も多い。そもそもは、世界の富豪、ロスチャイルド家の直系、ウォルター・ロスチャイルドが21歳になった1892年、両親が所有する土地に成人のお祝いにとプレゼントした博物館だ。小動物の剥製を大工がつくるのを見て以来、6歳のころから建設を夢見ながら、動物学に傾倒していったウォルターは、有名な『ドリトル先生』のモデルの一人だとも言われている。飼っているガラパゴスゾウガメに、馬に乗るかのようにまたがる写真が有名だし、アフリカから連れてきたシマウマの四頭立て馬車で寄宿舎に乗り込んだ、400人のプロを雇って標本を集めた、などなどその逸話には事欠かない。結局、借金まみれになって父親の逆鱗に触れることになるが、死後そのコレクションは大英博物館に寄贈され、巨大標本収蔵センター、ダーウィン・センターの基盤となる。2004年には、このトリングの私設博物館も大英博物館に所属することになり、分館となった。
この博物館の収蔵は、あえて書いてみると、哺乳類の剥製2000、鳥類剥製標本2400、爬虫類の剥製680が展示されており、また研究標本として哺乳類の皮や頭骨1400、鳥類仮剥製30万、鳥類の卵20万、昆虫類225万、とすさまじい数を誇る。
余談だが、実は、私もこのトリングの博物館には行ったことがある。事件が起きたのは2009年6月、エドウィン・リストが逮捕されたのは2010年10月のことだ。私が出かけたのは2010年8月なので、犯人の輪郭が見えていた頃だろう。私自身は盗難事件のことを全く知らなかったのだが、一部の標本が整理中で見られないと言われてやきもきしたことを覚えている。見学に来た子供たちが標本の前で、驚いたり興奮したり、楽しく走り回って叱られていたのを思い出す。
中には、本書でも触れられているが、アルフレッド・ウォレス・ラッセルがタグをつけた鳥の標本もあった。ダーウィンの進化論に貢献したとも言われる博物物学者、生物学者のラッセルだ。こうなると当然プライスレスだ。だが、そういった鳥の羽ほど、エドウィンのような人間は欲しがる。ラッセルがタグをつけたことは彼らには意味がなく、毛針の材料として入手困難であればあるほどほしくなるのだ。
盗んだのは16の鳥類種に属する299点の標本。ラッセルのタグを外し、羽をむしりとり、ジップロックに入れて保存していた。一部は毛針にして、一部はそのままで、イーベイなどネット経由で販売していた。そして残りは……。
結局エドウィンは1年4か月後に逮捕される。たが、すべて罪を認め、親の雇った弁護士の活躍でアスペルガー症候群であるといった理由で執行猶予がつき、音楽院に戻った。事前にトリングに下見までしていたのだが。
と、ここまでが前半なのだが、この風変わりな事件に興味を持ったのが、この本の著者だ。アメリカ軍撤退後に苦しむイラクの難民を受け入れるNPO活動をしていたが、困難を極める難民救済活動に疲れた著者は、最初は好奇心から、事件を調べ始める。
が、「なぜ博物館は同じ鳥類種の標本をいくつもお金をかけて収蔵しているのか」という問いに対する博物館の学芸員の答えを聞いて気づく。
人類は標本で明らかになった知識から恩恵を受けている。ウォレスやダーウィンが進化論を打ち立てられたのも、多くの標本があったからだ。わかりやすい例では、この博物館の鳥卵を年代ごとに比較することで、DDTの農薬散布以来卵の殻が薄くなり、鳥の繁殖が危機に陥っていることが科学的にわかり、DDTは使用禁止となった。
そんな自然遺産としての価値と意味を聞いてさらにひとりで、調べ始めるのだ。
実はこの後がおもしろい。事件はすでに決着がついていた。だが、博物館の記録によれば、盗まれた299点のうち、エドウィンの自宅で回収されたのは174点(72点はタグが外されていた)、買い手が自主的に返してきたのは19点だけ。それなら、残りの鳥たちはどこに飛んで行ったのか、羽もないのに。著者は、鳥たちの行先を、ひとり追っていく。
博物館の意義、進化論の発見、動物学、愛好家がネットでつながる地下世界。そして人の良心とはなにか。ひとつの犯罪には、百の背景がある。なにげない窃盗事件からここまで掘り下げるその手腕に脱帽だ。
表紙はガラパゴスゾウガメの上のウォルター・ロスチャイルドの写真。