経済も政治も社会もいろいろ停滞して、明るい展望が見えない時代に、おじさん、おばさんが若者に向かって、つい繰り出してしまうのが、「バブルの時はこうだった話」です。
日本中がカネあまりの熱に浮かれ、調子に乗った企業がNYのロックフェラー・センタービルを買ったり、客を入り口で選別するディスコが六本木にできたり、夜に出社して早朝にタクシーで帰る、というワークライフバランスが普通だったり。あのころは、そういう話がごろごろ転がっていました。
ところが、実は日本、特に東京は、バブルの最中ではなく、前夜の1980年代前半がめちゃ面白かったのです。
78年に大学に入り、82年に卒業した私は、重く暗めだった70年代が、後半から軽く明るめの80年代に突入していく、その変化をじかに感じた世代です。
なんでかなー、と当時はそれを分析する力もなく、この明るい時代がずっと未来永劫、右肩上がりに続いていくのだ、と思っていました。ばかですね。「著者自画自賛」というコーナーで、他の方の本をホメて引用するのもなんですが、小熊英二さんがお書きになったすごいベストセラー『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』に、次の記述があります。
“一九七〇年代後半に、日本社会は一種の安定状態になった。受験競争の激化はあったが、(中略)地域間賃金格差や階級間年収格差は一九七五年ごろが最小で、全体の貧困率も低下していた。「一億総中流」や「新中間大衆」といった言葉が流行したのはこの時期で、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版されたのは一九七九年だった。”
そうか。やっぱり70年代後半は日本人にとって、夢の時間だったのか。石油ショックあり、学生運動の挫折ありで、なんとなく暗かった70年代が、後半に反転するきっかけとなったのは、ユーミンの登場だったと思います。ユーミンさまの音楽は、70年代の翳りすらもゴージャスな歌詞世界に転換し、そこから私たち世代の感覚を根こそぎ、80年代モードに上書きしていきました。
海外ではSONYとHONDAが、いけてるブランドの代名詞で、青春のBGMは、山下達郎、大貫妙子、竹内まりや。レコードを探しに行く先は「六本木WAVE」。その地下にあった「シネ・ヴィヴァン」で、タルコフスキーの映画を観たのだよ……
という話を、今の若者相手にしても、「へー」で終わりです。よくて、「へー、そうだったんすか」ぐらい。
現在、五十路から還暦越え街道を走る私たち世代は、団塊世代とそのジュニアの間にあって、そもそも絶対数が少ない。この先の時間が有限であることを、うっすらと感じながら、後ろを振り返った時に、「あるある」で盛り上がる相手が、なかなか少ない。
と、出版ビジネス的にいうと、ニッチな読者マーケットの本ですが、70年代、80年代に若い時代を過ごしたお仲間には、「そうそう、そうだった」と、笑っていただける話が、ここには満載です。
思えばあのころは、戦後の教養主義というメインカルチャーがまだ世の中にあり、だからこそ、東京のひねた高校生(=岡康道さん、小田嶋隆さんのこと)が、カウンター道を行くことができました。
そんな岡さん、小田嶋さんは広告界とメディアで名を成しますが、五十路を越え、自分にも周囲にも、病気や、仕事、家族の問題が忍び寄ります。で、それらにどう処していくかというと、あくまでも軽く、世間話にして、ははは、と笑い飛ばしていくことが大事とか。
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