母は沖縄戦の体験者だった。このことが、ある意味ライフワークのように僕が沖縄にこだわる理由になったのだが、実のところ、母がその沖縄戦でどのような体験をしたのか、よくわからないままでいる。
沖縄戦について問うと、母は口を固く閉ざしてしまうからである。住人の4人に1人が亡くなった史上類例のない地上戦が展開された島には、その戦について語らない人たちが多い。「語らない」あるいは「語れない」理由はいうまでもない。戦がまだ夢に現れるほど可視的な過去であるために、心の傷が癒えないからである。
もう少し母の話を続けたい。米軍が沖縄本島読谷村に上陸したのは1945年4月1日。本来ならその年、彼女は沖縄県立第一高等女学校に入学する予定だったが、戦時教育措置によってすでに授業は停止され、上級生たちはほぼ1週間前の3月23日、南風原陸軍病院に看護要員として動員されていた。
いわゆる「ひめゆり学徒隊」である。学徒隊の年齢は15〜19歳。母はかろうじて動員を免れたが、実家近辺は激戦地になり、弾雨の中を逃げ惑ううちに家族の半数を失った。
当時、母は14歳。この本に登場する元少年ゲリラ兵と同世代だった。彼らもほとんどが戦時のことを語らなかった人たちである。10代半ばの多感な時期に特異な体験をした少年たち。あどけないその瞳にいったい何が映っていたのか。僕は少女時代の母の「眼」になったつもりでページをめくっていった。
本書は2015年に放送されたNHKスペシャル「アニメドキュメントあの日、僕らは戦場で〜少年兵の告白〜」の取材記録をあらためて書き起こしたものである。番組は戦後70年という節目に制作されたが、不覚にも、僕はこのドキュメントを見て「護郷隊」の存在を初めて知った。
護郷隊は沖縄戦が勃発する前年の1944年9月に創設された遊撃戦=ゲリラ戦を専門とする部隊で、故郷を護る(守る)という意味でそう名付けられた。
護郷隊を指導したのは陸軍中野学校の出身者たちだった。中野学校は諜報・防諜、情報収集に関する教育や訓練を目的とした参謀本部直轄の特務機関である。あの731部隊(関東軍防疫給水部本部)と同じく、存在そのものが極秘とされていた。
主な活動地域は沖縄本島北部。約1000名からなる部隊の大半が14歳から17歳の少年兵で、少年兵のゲリラ戦部隊としては日本軍では唯一のものだった。ではなぜ、ゲリラ戦だったのか。
米軍を中心とする連合国軍によってアジア・太平洋の拠点を次々と失った日本が最も頭を悩ましていたのが、圧倒的な兵力や兵器の差だった。そこで軍部が注目したのが少数でも戦えるゲリラ戦だったのである。
ゲリラ戦とは兵力差のある敵に正面から立ち向かうのではなく、ジャングルなどに潜伏し、奇襲攻撃を繰り返して相手を消耗させる戦法のことをいう。亜熱帯性の密林で覆われた沖縄本島北部はうってつけの「実践」の場になったのである。
他方、沖縄本島における主力部隊は司令部のあった首里から南部に撤退したため、手薄になった北部を守備するには、少数に分散して戦えるゲリラ部隊がいよいよ不可欠なものになっていった。
ではなにゆえ10代半ばの少年たちがゲリラ戦の兵士として目をつけられたのか。
当時の「兵役法」では17歳以上からしか召集をかけることができなかった。しかし兵力不足に悩む軍部は44年12月、沖縄と一部の地域で、14歳以上でかつ志願すれば召集が可能になるよう法令を変更したのであった。
だが、取材班の聞き取りによると、志願していないのに召集されたり、法令が公布される前に召集されたりするケースが相次いでいたことが明らかになっている。
さらには集められた少年たちに次のような訓示を垂れた隊長もいたという。
「あんたたち、帰ってもいいが、ハガキ一本でこれだ(手刀で首を切るしぐさ)」
強制どころか恫喝まがいの命令である。しかも、正式な兵隊であれば給料が支払われるはずだが、一円も受け取ったことがない人がほとんどだった。沖縄で限定的に適用された法令がいかに違法な召集であったか、この一事をみてもわかるというものである。
護郷隊の主力は恩納岳(恩納村・金武町)と多野岳(名護市)に置かれ、おもりを背負っての行軍、射撃などの基礎訓練のほか、昼夜を逆転させた夜間訓練が繰り返された。
闇のなかを10キロもある火薬を背負って敵陣に忍び込み爆弾を設置、爆破させたり、爆薬を抱いて戦車に体当たりする攻撃を想定した訓練も実施された。訓練中はあざができるほど殴られるのが日常で、少年同士で殴り合いをさせられることもあったという。死を恐れない兵士になるための洗脳教育も徹底された。
「敵を殺せ、10人殺したら死んでもよい」——。
「本当に死ぬ覚悟があるか試してやる。首を出せ」と命じ、日本刀を抜き払った中隊長もいた。
結局、中隊長は刀をおさめたが、その圧倒的な恐怖を前に少年の心は動かなくなってしまう。
「もう何も特殊なことは考えない。親のこと考えるとか、自分の将来考えるとか、痛いだろうとか、そういうことは全然考えないですね。ただもう、無心にこう、言われた通りに首を差し出して……」
死の恐怖や感情を麻痺させていった少年たちはやがて、目の前で同じ学校の友人や同郷の知人が死んでも何も考えられず、可哀そうという感覚まで失っていく。そんな少年たちの心をさらに打ち砕く出来事も起こっている。米兵に利用されるのを避けるために、生まれ育った集落の家を片っ端から焼き払ったのである。むろん上官からの命によってである。
「何も考えないでどんどん火をつけていたと思う」
護郷隊と命名された部隊の元少年兵は故郷を守るどころか、自分のふるさとを破壊したのだった。凄惨な事件は枚挙にいとまがない。沖縄戦末期の6月には護郷隊が仲間の隊員を処刑するという事件が発生している。
処刑されたのは食糧を運ぶ役目をしていた少年で、時間通りに部隊に戻るのが遅れたことが「死刑」の理由だった。
「分隊長に命じられて、猪を取る穴に入れられ、撃たれた」
複数で撃ったため、誰の弾があたったのかは不明だが、同じ地域出身の顔なじみによって「処刑」されたことから、事件に関わった元少年兵の苦悩は戦後も続くことになる。
恩納岳では、負傷して自力では歩けない少年兵を軍医が撃ち殺す瞬間を目撃した人もいる。射殺された少年とは同郷で顔見知りだった。
「あんな死に方は、言いたくもないし、見せたくもないしね。義英さん(射殺された負傷兵)の家族に言ったら、大変だから……」
事実、目撃した元少年兵は事件について戦後一貫して沈黙を守り続けた。遺族に真相を語ったのは2015年6月23日。戦没者を追悼する「慰霊の日」に番組を通して初めてその真相が遺族に伝えられた。
繰り返すようだが、なぜ少年たちがゲリラ兵として日本軍に徴兵されたのか。兵力不足が直接の理由であることは疑いようがないにしても、本書で分析されているように、「俊敏であることや素直であることを理由に、積極的に少年を選んだ可能性もゼロではない」という指摘は的を射ているように思える。加えていうならば、子どもらしい無垢な正義感も狙われたに違いない。
給料を払わなくても不満をもらさず、お国のためといわれれば自分の家にまでつけ火するという行為は分別のある世代には簡単に受け入れられるものではない。幼いからこそ、ぶれることのない正義感や道義心が彼らを特異な行動に向かわせたのではないか。
「戦争というのは本当にまるっきり異次元の世界と言いますか、人間の尺度が全然当てはまんないんですね」
元少年兵のこの言葉はまことに重い。いいかえれば思慮分別の未熟な子どもが戦争に利用されると、狂気じみた心理状態がより増幅されてしまうといえようか。
『ニューヨーク・タイムズ』の記者でピュリッツアー賞を受賞したハンソン・ボールドウィンは沖縄戦を「醜さの極致」と形容したが、未来を担う子どもの心身を一個の兵器として利用し、人間性を丸ごと剥奪して最前線に送り込んだ国家こそ醜悪の権化ではなかったか。
その国家は奇しくも沖縄戦の組織的戦闘が終結した45年6月23日に「義勇兵役法」を日本全土に公布している。男子は15歳、女子は17歳から通常の兵役とは別の義勇兵として召集するもので、とどのつまり「国民義勇戦闘隊」として戦争に動員できるという法令である。これによって召集できる兵員は2800万人にまでふくれあがった。まさに「特攻の全体化」を想定した空前絶後の「徴兵制」といっていい。
沖縄戦は本土決戦準備のための時間稼ぎであった。その結果、戦闘に巻き込まれた住民の犠牲者は12万人にのぼった。が、大本営はそれにも懲りず、というより、「三ケ月の貴重な時を稼いだ」「作戦的勝利」として自画自賛し、本土決戦に向かって本気で突き進もうとしていたのだ。
一億総特攻は本書で指摘されているように「精神論」ではなく目前にまで迫っていたのである。要するに護郷隊こそ国民義勇戦闘隊のプロトタイプで、本土決戦に一直線でつながっていた部隊ということになる。
各地に配置されていた中野学校の工作員たちは、恐るべきことに九州の一部ですでに少年兵を組織化し、訓練を始めていたことが元中野学校出身者の証言によって明らかになっている。彼らには「中野は語らず」という掟があり、護郷隊と同じく特務任務については口を閉ざし続けてきた人が多い。現在はそのほとんどが鬼籍に入っている。
「中野学校というのはね、恐ろしい学校なんですよ」
「要するに、国のために悪いことをやってくれ、ということかねえ——。国のため」
「戦争は、するもんでねえ。特定の人に害が集まる。戦争は、反対だね」
元中野学校の卒業生の言葉である。戦場に子どもたちを駆り立てた彼らも自らの人生を悔い、押し黙るほかない戦後を過ごしてきたのである。
護郷隊の死者は162名。生き残った人も含め、元少年兵が戦場で実感したのは、虫けらをふみつぶすように扱われた命の軽さだけだったのではないか。
1945年4月30日、母の実弟が沖縄本島中部の旧西原村小波津で亡くなった。享年5。当時14歳の母に背負われて避難壕に逃げ込んだ直後に米軍のガス弾が炸裂した。現場は実家から3.5キロの距離で、戦場を右往左往しているうちに壕に入ったに違いない。
母は気を失っていた。気づいたときは母が実弟の上に背中を押し付けるような格好になっていたという。すでに息は止まっていた。死因は不明である。ガス弾によるものと思われるが、母は自分が圧死させたのではないかとも思っている。
ともかくも、それが十数年前にようやく聞き出すことができた母の沖縄戦である。その後、収容所に収監されたというが、それ以上のことは語ろうとしない。
母は実弟が亡くなった場所をいまもって知らずにいる。先だって「行ってみようか」と誘ったが、彼女はきっぱりと言った。
「いや、行きたくない」
そうして一呼吸おいてから独り言のようにぽつりと言った。
「あのときいっしょに死んでおればよかったのに……」
その呟きは元少年兵が語った言葉と重なっている。
「ただ生まれなかったと思ったら、それでいいんじゃないかと」
実弟の死の真相を胸の内に抱え込みながら戦後を生きた母もまた命の軽さを意識し続けている。慄然とさせられる情景だが、それこそがありったけの地獄を集めたと言わしめた沖縄戦の実相なのかもしれない。
あるいはもっといえば、危機意識を超えるほどの切羽詰まった凄絶な体験が、戦後の日本本土と沖縄の著しく異なる心理の溝をかたち作ったかと思える。
(令和元年六月、作家)