「虚実皮膜」とは、芸術は虚構と事実との、皮と膜とのようなほんのわずかな間にあるという意味で、近松門左衛門が語ったとされる言葉だ。しかし、実際にそうかは時と場合によるだろう。本書で扱われる「ロックフェラー失踪事件」について知れば、「虚実の皮膜」にあるのは悲劇でしかないということを痛感する。
事件は1961年のオランダ領ニューギニアで起きた。ロックフェラー家の一員として輝かしい未来を約束されていた、マイケル・ロックフェラーという米国の白人青年が、現地のアスマット族によって殺されたのだ。単なる殺人ではなく、首狩りに遭い、その後食べられてしまった。
当時、さまざまな事情から真相は闇に葬られ、事件の原因はその後「失踪」や「溺死」とされた。本書はその事件の一部始終を徹底的に調べ上げ、なぜマイケルが殺されなければならなかったのかという核心に迫った衝撃のノンフィクションである。
アスマット族の世界は、西洋社会のタブーをそのまま具現化した世界だった。男は男とも性交し、自分の妻を他人と共有する。時に尿を飲み合い、男全員が首長のペニスをくわえて吸った。隣人を殺し、人の頭を切り落とし、人の肉を食べるというのは日常茶飯事。それこそが彼らを彼らたらしめる習慣だった。外の世界を知らないアスマット族にとって、それらは絶対的な「善」の行為とされたのだ。
一方で、白人青年のマイケルはプリミティブ・アート(先史時代の造形物の芸術)に傾倒していた。ニューギニアに赴いたのも、文明化されていない過去の世界を自分の目で確かめ、呪術に用いられる彫像などを蒐集したいという思いに突き動かされたからだった。その過程では、若さゆえの過剰な自信や、地元部族への無理解もあっただろう。
周囲の社会から閉ざされた部族と、世界中の何でも知っていると思い込んでいる若者。両者間の文化的衝突が、惨劇の呼び水になったことは想像に難くない。タイミングも悪かった。直前にアスマット族と白人との衝突が繰り返され、アスマット族が白人への復讐心を抱いていたのだ。
両者の衝突は別の視点から捉えることもできる。アスマット族の精霊を中心とした精神世界と、西洋の理性を中心とする現代社会との対立構造という視点だ。つまり虚構に支配されたムラ社会の掟により、現実社会の若者が殺されたというものだ。しかし、この見方も西洋社会に偏っているのかもしれない。
著者はインドネシア語を短期間で習得し、アスマット族の村落で1カ月近く生活することで、彼らの文化の理解に努めた。すべてはアスマット族がどのような論理に基づいて、マイケルを殺したのかを解明するためだった。
その中で、マイケルが殺された理由をアスマット族の文化に見出しながら、文化そのものにも魅了されていく。彼らの「今、ここ」を起点にした生活を目にし、西洋社会のほうが虚構に支配されているのではないかと思い始めるのだ。その逆転のプロセスは、圧巻である。
マイケルは多様性のある世界に魅力を感じ、世界中のあらゆることを知ろうとした。それ自体は悪いことではない。しかし、その純粋な思いが悲劇につながったのである。きれい事では済まされないという「世界の多様性の現実」をイヤというほど教えてくれる1冊だ。
※週刊 東洋経済 2019年5月18日号