永野さんに初めてお会いしたのは1982年頃だった。彼は既に名を馳せたバリバリの兜町担当の日本経済新聞記者で、私は人事異動で初めて証券局勤務となった新米の課長補佐。当時の日本は第一次石油ショックの教訓を生かし、先進国の中では比較的うまく第二次石油ショックを乗り切ったころで、世界における日本のプレゼンスが高まりつつある時代であった。行政上の課題として二つの「コクサイ」、即ち日米金融協議をはじめとする国際化の流れへの対応と、大量の国債を消化するための環境整備を抱えていた。
そんな中で経験豊富で鋭い洞察力を備えた永野さんとの会話は刺激的であり、市場や金融を見立てる時の考え方を養うのに随分と役に立った記憶がある。たまに一緒に飲む時も話に引き込まれ、気がついたら夜明けだったことが二回ぐらいあった。実は、そうして朝まで飲むたびに翌日、永野さんが心臓発作で倒れられ、生命の危機に瀕するという事態が続いたのである。そのようないきさつがあるから、今年に入って「『バブル』の文庫版を出すので、その解説を書いてくれ」と頼まれた時、断れるはずがない関係である。
『バブル」は永野さんが一生かけて取り組んできた市場と金融を巡る思想史であり、形を変えた自伝でもある。市場をきちんと機能させなければ、そしてそのための制度改革などの環境整備を遅れずにタイミングよく実施しなければ、この国は潰れるという熱い思い。永野さんが尊敬した野村証券元社長の田渕節也氏が硬直した金融秩序を「資本主義計画経済」と呼び、その打破に生涯をかけて挑んだ思いへの共鳴。「大蔵省が一番えらく、その代理人が日本興業銀行で、興銀の指図でお金を配分する都市銀行が床の間を背負って上座に座り、下座で頭を低くして控える証券会社がお金を融通していただくという世界」。そんな銀行主導の間接金融システムを、証券会社主導の直接金融に変革するのが田渕氏の夢だった。
著者曰く。バブルが生じた背景には世界経済の不安定化があった。ベトナム戦争で疲弊した米国は単独ではもはや世界経済を支えられず、ドル本位制から変動相場制に移行する。さらに二度の石油ショックを経て、米国は巨大な経常収支赤字と財政赤字に苦しむ。その打開策が85年のプラザ合意だった。好調な経済を維持していた日本と西ドイツを巻き込み、為替調整を通じた世界経済の調整の試みである。その結果、円高不況に陥った日本経済を建て直すため、累次にわたる金融緩和政策と財政刺激策が採られ、結果的にバブルを生む。
この内外の流れを前提としつつ、永野さんは日本固有の制度や慣行、政策がバブルを加速したと断じる。絶えず遅れることなく構造改革に取り組まねばならない所以である。
例えば、時価評価をしないため、バランスシートに表れない莫大な含み益が発生し、それは株主でなく経営者のもの、として恣意的に使われがちだった。例えば、銀行内部では営業部門と審査部門の組織統合が進み、チェック機能を発揮できなかった。例えば、土地価格は上がるものだという土地神話とカネ余り現象を背景に、有担保主義に頼る金融機関は極端な融資拡大路線に走った。また87年のブラックマンデーのあと、世界の株価下落を日本で止めようとして、大蔵省は諸々の有価証券に対する投資誘導策をとった――。
大蔵省、日銀、金融機関、証券会社、事業会社それぞれに永野さんは鋭い筆を向ける。今から振り返れば、それぞれに正しい指摘ではあるが、当時の内外の情勢を考えると、果たして永野さんが言うような判断を下せたかどうか、評価が分かれるところであろう。
本書の魅力はこうした冷徹な分析だけではない。読んでみて個人的に一番興味をそそられたし、また最も多くの紙数を充てられているのは、その時代を駆け抜けた様々な人物の描写と評価なのである。ディープな取材をもとに、時代認識を踏まえた鋭い洞察力と、人間そのものに対する深い理解によって、それぞれの人間像を抉り出している。
例えば、大蔵省の佐藤徹証券局長。私は証券局で一年だけお仕えしたが、恥ずかしながら、凄まじい変革のパワーに突き動かされた佐藤局長の水面下の行動は全く知らなかった。
部下からみれば、非常に情に厚く、ただし近寄りがたい上司だったが、永野さんが描く人物像はリアルで生々しい。佐藤局長は、自らが属する昭和29年入省組からは事務次官が出ない、と思わせる人事があった時、その理不尽な思いを最も尊敬する次官OBだった長岡実先輩にぶつける。だが、大蔵省のドンと呼ばれていた長岡さんから「徹、すっこんでろ」と激しく罵倒されたという。永野さんと佐藤さんの仲は、こんな心情を吐露できる深いものだったことがうかがえる。
また永野さんはエリート層が忌み嫌ったバブル期のトリックスターたちも頭から否定することはしない。「何よりも、秀和の小林茂、麻布建物の渡辺喜太郎、光進の小谷光浩など日本の経済社会で異端児、もっといえば成り上がりと蔑まれていた人たちに、ある種の親近感をもっていた。(中略)資本主義のなかの企業家精神には、いつも上昇志向とともに、ある種のいかがわしさが潜んでいるものなのである。それをチェックし、上限を設けるのが、金融機関であり、官僚の仕事ではなかったか」という言葉はひときわ印象深い。
内外の経済社会の流れや、その中に位置づけられる制度、慣行、政策を追う冷徹な眼と厳しい批判力。他方では人間に対する深い洞察力と愛情。相矛盾しかねないこのような二つの視点を併せ持ち、一つの時代を見事に描き切った本書は、やはり永野さんにしか書けない総括であり、彼自身の形を変えた自伝なのである。
その昔、永野さんの歌を一度だけ聞いたことがある。曲は鳥羽一郎の「兄弟船」であった。世の中に対する深い慈愛の歌に聞こえた。
(2019年3月 インターネットイニシアティブ社長・元財務事務次官)