「夜間飛行」という言葉を目にした時、ある人はサン=テグジュペリの『夜間飛行』を、ある人はちあきなおみの「夜間飛行」を、そしてある人は街の一角に佇むバー「夜間飛行」を思い浮かべるかもしれない。本書のタイトルは、主人公がずっと身につけていたゲランの香水の名前からヒントを得たものだ。「女性らしさを失うことなく、男性中心の社会でも自分の立場を貫き、冒険的で志のある女性に捧げられた香り」と言われている。
「ビートルズがタラップを降りて来た翌年には、青白い顔にソバカスを散らしたツイッギーがやって来た。」時は昭和40年、女性の色気ある仕草やお客との目配せ、弾む会話に香水の香りなどとともに東京銀座の華々しい世界観を本書は詳細に描き出し、読者はまるで映画を観ているような錯覚に陥る。本書は、銀座が夜の社交場として絶頂期を迎えた当時の最高級クラブ〈姫〉のなかで、オーナー山口洋子の同志として銀座を羽ばたいた女性の数奇な運命を追った、実話小説である。
主人公の増澤裕子は、福岡西部の料亭「富貴楼」の娘に生まれ、父の干支吉や母チセ、兄の武之や嫁の佳子たちと共に過ごした。増澤干支吉は、町民に「大将」あるいは「富貴っつぁん」と呼ばれ、町会議員を何期も続けた今は、議長であり九州全域の議長会の会長もつとめる名士だった。一方、放埓の限りを尽くす父親の姿に増澤家は振り回されるのが常であった。そんな父親の勝気な性格をそのまま受け継ぎ、そこに知性を兼ね備えた娘が裕子である。「この花、好いとう」「なら、とっちゃろたい」。福岡西部の訛りが本書全体で心地よいテンポを生み出している。
幸せもつかの間で、家族の反対を押し切って園井昭夫と結婚し、独立して喫茶店を始めたが、美貌と知性を兼ね備えた裕子に会いに来る常連に業を煮やし、1年も経たないうちに昭夫の暴力に苛まれていく。そして、借金返済のため身体を求められたが最後、裕子は生後2週間の赤ん坊を家に残したまま、京都行きの汽車に乗って故郷を去ってしまった。
行く宛もなく、福岡に帰ることも出来ない。酷い乳腺炎に命を落としそうになりながらも、1日1日を生き延びた。「うちが幸せやらになりませんように。」裕子は、女給として、京都、奈良、大阪を転々としてゆく。そして、いかにして銀座〈姫〉にたどり着いたのか。
〈姫〉は、1956年、女優・作家と様々な顔を持つ山口洋子が19歳で開業した店だ。多くの作家や医者や芸能人、野球選手ら各界の著名人が集い、最高級クラブとして、銀座の街が大衆キャバレーから高級クラブの街に移り変わる先導役を果たした。山口洋子は、当時一流中の一流といわれた〈おそめ〉のママである上羽秀や〈エスポワール〉の川辺るみ子に絶対負けたくなかった。どうしても裕子が必要だった。
昭和の歌謡曲ヒットメーカーで直木賞作家としても知られる山口洋子も数奇な人生を送る。五木ひろしの「よこはま・たそがれ」や石原裕次郎の「ブランデーグラス」など多数のヒット曲を作詞し、1985年には『演歌の虫』『老梅』で直木賞を受賞。銀座の女帝として〈姫〉を経営する傍ら、芸能人や銀座のママなど多くの有名人を輩出している。
著者・北迫薫は、裕子の姪である。裕子が結婚する前から「富貴楼」で一緒に暮らしていた。裕子が失踪した後、裕子の情報が一家にもたらされた時に、家族が血相を変えて旅の支度をしだす、そんな様子をずっと目にしてきた。著者が、叔母の人生を書き残したいという気持ちは、他の著書を読んで事実と異なる話が一人歩きをしていたからという。そして、銀座の夜など想像もつかないものだから、石井妙子氏の『おそめ 伝説の銀座マダム』やDVD「夜の蝶」、「黒の十人の女」など多くの資料を漁ってはイメージを膨らませた。
本書を見つけた時、「昭和が疼く、ノスタルジーが沁みる」という帯のキャッチコピーが私にはピンとこなかった。”大衆キャバレー”や”文壇バー”が、現在の世界観とかけ離れていて、どうしてもイメージがつかなかった。しかし今思うのは、当時の甘くて切ない、ある種の可愛らしさを含む世界の方が、現在よりも真っ当な気がして、少し羨ましい思う。この時代を知らない人にとっても、不夜城を誇る銀座・活気溢れる地方を背景とした人々の生活を知ることは、自分の中の思いがけない感情をドキドキさせる、きっかけになるのかもしれない。