変だと思われるかもしれないが、評者は自分の人生より他人の人生に興味がある。自分の中では考えもしなかった生き方や着眼点、思考法を知ることにえもいわれぬスリルを感じるのである。読書が好きなのもそういう理由だ。
本書の著者も、人々の人生にずっと関心を持ってきた。その好奇心が高じて、イギリスのブリストル大学では脳の研究に没頭し、神経学の学位を取得。卒業後は科学雑誌で編集者を勤め、現在はフリーの科学ジャーナリストとして活躍している。当たり前の話だが、人生と脳は密接な関係にある。なぜなら人間の感覚や動作、経験、記憶、もっと言えば今この文章を読んでいるあなたが見ている世界も抱いている気持ちもすべて、頭蓋骨の中のたった1200~1500グラムほどのブヨブヨした塊が司っているからだ。
本書は、著者の最大の興味である「特別な脳」、すなわち普通の人とは違う特殊な能力や体験をもたらす脳を持つ人たちに会うべく世界各地を旅した2年間の記録である。彼女が、雑誌や医学論文で症例を読み漁るだけでなく、実際に彼らの見ている景色を知りたいとの思いを強くしたのは、『妻と帽子を間違えた男』や『火星の人類学者』などの著作を持つ神経学者オリヴァー・サックスのこんな言葉がきっかけだ。
誰かを本当に理解し、彼らの内面のヒントになることを知るためには、その対象を分析したいという欲求を抑え、その人と率直で穏やかな関係を築き、彼らがいかに生き、考え、自らの人生と立ち向かっているかを知るべきだ。何か極めて神秘的な働きを見ることができるのはそういうときだ。
そうしてイギリスを飛び出した彼女が最初に出会ったのは、「人生すべての日を記憶する」男性、ボブ。彼は、自分の人生のある一日を振り返ろうとすると、まるでホームビデオを見るように、その日の天気や一緒にいた人、気分、考えていたことなど全部が脳内で完全再現されるのだ。まさしく超人的だが、彼の記憶力は遠い過去の日々に限定され、直前の週については普通の人と同程度なのだそう。つまり、記憶する力が優れているのではなく、記憶をコード化して取り出す力に長けているのだ。辛い思い出が鮮明に蘇ってしまうこともあるが、この能力の最大のメリットは愛する人を失っても記憶が消えないことだと彼は語る。
次に登場するのは「自宅のトイレからキッチンに行こうとして迷子になる」女性、シャロン。いま、あなたが自宅か会社のデスクにいるとして、そこからトイレに行くまでの道順を思い浮かべてと言われたら、おそらくほとんどの人は考えるまでもなくできるだろう。この、方向認識と脳内地図作成能力は実は脳の活動において最も高度なものの一つで、シャロンは日常生活で頻繁に脳内地図が喪失するために、自分のいまいる場所が突如として全く知らない空間に変貌し、混乱をきたしてしまうのだ。彼女はこの究極の方向音痴とでも言うべき症状を30歳近くなるまで隠し通し、カミングアウトしたあとは深刻な鬱病に苦しむこととなった。しかし、理解ある研究者に出会えたことで、現在は自分を受け入れて幸せな生活を送っている。
著者はそれからも邂逅を重ねていく。色盲でありながら特異な共感覚で他人に色彩豊かなオーラを見る男性。聴力の大部分を失っているのに脳内で鳴り続ける幻聴を絶対音感で五線紙に書き留める女性。周りの人の痛みや触覚を自分の肌でも感じてしまう男性医師……。
中でも、気分の極度な落ち込みののちに「脳がなくなった」感覚に陥り、自分は死んだと思い込んだ男性・グラハムの症例は特に目を見張る。重度の鬱から彼のような症状(コタール症候群と呼ばれる)が出るケースは確認されているが、驚くべきは、彼の脳は代謝活動が著しく低く、昏睡状態にあると診断されたにもかかわらず、3年もの間、いつもと変わらず生活をし、周りと不自由なく受け答えできていた点だ。いまでは幻覚やその奇妙な妄想は消えたものの、食欲は失せたままで、時々変な考えが浮かんでくることがあるそうである。
彼らの体験を読むだけでも驚嘆の連続だが、断っておくと、決して我々一般人と遠くかけ離れた感覚ではない。周囲を見渡せば、記憶力がいい人も方向音痴な人もそれなりにいる。体調がいいので頭の中で好きな音楽を流したり、他者の痛みに共感したり、嫌な出来事のせいでひどく落ち込んだことだってたぶん誰しも経験があるだろう。著者は彼らのストーリーを聞いたそのままに綴らず、その症例の歴史や脳科学の最先端の知見もまじえ、さらには脳がつくりだす不思議な力を簡単に試せる方法なども紹介し、読者を置いてきぼりにしない工夫を随所に凝らしている。
本書から一つ、すぐに自分の能力を調べられる実験を抜粋しよう。いま、胸に触ったり脈を取ったりせず、心臓の鼓動を感じてみてほしい。暑さや寒さ、喉の渇き、空腹といった自分の体内の状態を感じる能力を「内受容」と言うが、現在ではこの力が人間の思考や感情、社会的行動と深く関わっているという。この心臓の鼓動テストは内受容能力を測るもので、鼓動をよりはっきりと感じられる人は自分の感情を読むことが上手く、必然的に他人の感情を解釈する能力も高いそうだ。
一人一人の人生にウェイトを置きながら、科学への敬慕も忘れない。著者が「ロマンティックサイエンス」と呼称するこの描写法は知的興奮をかき立てられるうえに、読んでいてひじょうに気持ちがいい。彼女の主張はこうだ。
一人の人間の人生を紹介するだけで、脳について何かを伝えるのはあまりに主観的だという科学者もいるかもしれない。だが、私はその意見には賛成できない。確かに科学は我々の人生のある部分をはかり、検査し、説明できることを誇っている。客観性は科学の根本であり、それは正しい。しかし主観にもまた実体があるのだと私は主張したい。どちらも必要で、片方だけでは十分ではないのだ。
特別な脳を持つ人たちを糸口にして、複雑かつ精巧な脳の謎めいた神経システムの全容解明を目指す。脳が脳自身を理解するなんて、見果てぬ夢かもしれないが、なんとも甘美でスリリングだ。読み終えたあと、意識の有無に関わらずいつでも懸命に働く自分の脳がなんだか愛おしくなる、そんな一冊だ。