2008年の世界的な金融危機、いわゆるリーマンショックから10年が過ぎ、その記憶も風化し始めている中、今から20年前の1997年から1998年にかけて我が国で起きた未曾有の金融危機を覚えている人はどれだけいるだろうか。
今や、大蔵省銀行局・証券局、長期信用銀行(興銀、長銀、日債銀)、北海道拓殖銀行(拓銀)という組織があったことさえ知らない若者も多い。
1997年11月17日に拓銀が経営破綻した。その「最後の頭取」となった本書の著者、河谷禎昌元頭取は、特別背任罪で懲役2年6ヵ月の実刑判決を受け、2009年12月7日、札幌刑務所に収監された。
バブル崩壊後、多くの破綻した金融機関の経営トップが不正融資や不良貸付に絡んで刑事責任を問われ、1995年の東京協和信用組合と安全信用組合に始まり、2003年までに経営陣が逮捕された金融機関は40近くに及んだ。
特に、1997年末から1998年までの一年間は、以下のような大型破綻が続いたが、刑事責任を問われた金融機関のトップの大半は、たとえ有罪になっても執行猶予がついたため、銀行の経営トップで収監されたのは拓銀の河合元頭取だけである。
1997年11月3日、三洋証券(会社更生法申請)
1997年11月17日、北海道拓殖銀行(営業譲渡決定)
1997年11月24日、山一証券(自主廃業発表)
1998年10月23日、日本長期信用銀行(特別公的管理申請)
1998年12月13日、日本債券信用銀行(特別公的管理申請)
金融機関の破綻に連鎖して多くの企業も倒れていった。カルロス・ゴーン元会長が特別背任罪で逮捕された今話題の日産自動車も、過剰な債務を抱えて経営に行き詰まり、1999年3月にルノーの傘下に入ることになった。
大手証券による損失補填の発覚に端を発し、大手銀行による不正融資、大蔵省や日銀への過剰接待を追求する検察の国策捜査は、遂に政界にまで及び、経営の混乱とバブル崩壊後の不良債権の拡大が相まって、多くの金融機関が破綻していった。
こうした混乱の原因としては、当時の日銀の金融政策の過ちや政治と大蔵省の無策が挙げられるが、よりマクロに見れば、日本が高度成長期の経済モデルから脱皮できなかったという構造的問題があった。
その渦中で、第一勧業銀行の宮崎邦次元会長や大蔵省出身の新井将敬代議士を始め、6名もの関係者が自殺に追い込まれていった。
日本全体での自殺者数の推移を見ると、1997年は24,391人だったのが、翌1998年には 32,863人(+35%)に急増している。特に、男性の増加が著しく、50代を中心として 16,416人から 23,013人(+40%)へと激増した。(尚、2012年には再び2万人台に戻り、2018年には 20,598人にまで減少している。)
底が抜けたような絶望感の中で、多くの日本人が将来を悲観して自らの命を絶つ。20世紀末の日本というのは、正に「世紀末」と呼ぶのに相応しい暗黒の時代だったのである。
そうした中で、拓銀の最後の頭取は何を思いどう行動したのか。収監から10年、84歳になった本人が、バブルの教訓を後世に伝えるために全てをつまびらかにしたのが本書である。
破綻から1年経った1998年11月、拓銀の道内の営業は北洋銀行に、道外の営業は中央信託銀行(現三井住友信託銀行)に譲渡された。その4ヵ月後、著者は北海道警察に商法の特別背任罪の疑いで逮捕された。
特別背任罪は、株式会社の取締役などが、自己または第三者の利益を図る目的で、その任務に背き、会社に財産上の損害を発生させた場合に成立する。リゾート開発グループ向けの追加融資について、「回収の見込みがないのに自己の保身を目的に融資を続けた」とされたのである。
刑事罰に止まらず、「銀行の取締役としての注意義務に反し、ずさんな融資をした」として、山内元頭取や著者ら当時の役員13人に支払いが命じられた賠償額は、金融機関の破綻に伴う訴訟では最高額の101億円にも達した。
破綻後、1999年に発表された拓銀の1997年度決算での公表不良債権総額は、貸出金残高5兆9,290億円の約4割にものぼる2兆3,433億円になった。
それでは、この不良債権の山を築いたのは誰なのか。その責任は一体どこにあったのか。第二次世界大戦後、連合国軍は、東京裁判(極東国際軍事裁判)において、日本の指導者たちを戦争犯罪人として裁いた。その公平性を巡っては様々な議論があるが、著者は、国民に「あの戦争とは何だったのか」を理解してもらうために、東京裁判は必要なプロセスだったと考えているという。
そして、これと同じように、「拓銀破綻とは何だったのか」を多くの人に知ってもらいたいという思いで著したのが、本書である。
著者が山内元頭取からトップをバトンタッチされたのは1994年のことだった。バブル崩壊の影響が多くの産業や金融界にも目に見えて出始めた頃で、株価が下がって株の含み益は含み損に転じ、貸し出しの担保である不動産の価格もどんどん下がっていた。
何もしなくても、不良債権額がどんどん増えていく悪夢のような状況だった。マスコミ報道で「危ない銀行」と名指しされ、拓銀のイメージは急速に悪化し、大量の預金が流出して資金繰りが厳しくなっていった。
評者自身もこの当時、銀行の経営企画部に身を置いていて、正に「底が抜けた」ような状況に直面した。山一が倒れ、北拓(銀行界では拓銀ではなく北拓と呼んでいた)が倒れ、次は自分たちの番かと、逃げるそばから崖が崩れていくような恐怖だった。
今であれば冷静にその時の状況を振り返ることができるが、当時は銀行の中枢に入ってきた東京地検特捜部の対応も併せて無我夢中で、もう何もかもが分からない状況だった。
それでは、そうした不良債権を作った責任者は誰なのか。本書では、「拓銀破綻のA級戦犯」として5人の名前を挙げている。その実名については実際に本を読んでもらうとして、著者が考えるに、組織には出世すればするほど変わる人と、出世しても全く変わらない人がいる。前者については、終いには顔つきまで変わってしまい、人間というのはこんなにも変わるのか、怖いものだと感じたという。そして、そうした行員たちが不良債権の山を築いていったのである。
ただ、それもバブルのなせる業だったのかも知れない。若い人々には理解できないかも知れないが、まともな人間の正気を失わせてしまうほど、1980年代のバブル時代の日本では、何もかもが常軌を逸していたのである。
元銀行員の身として、本書の冒頭に出てくる著者の言葉が辛い。84歳となった今、事ここに至って自分の人生を否定はできないだろうから。
「これからの銀行はどうなるのか。銀行受難の時代を迎え、不安を抱えながら仕事をしている行員も多いのではないでしょうか。バンカーともいう「銀行員」は、経済の血液であるマネーを社会に循環させる、日本の経済インフラを支える大切な職業です。この仕事は昔も今も将来も、社会にとって必要不可欠であり、私はこの職業に誇りを持っています。」
現役の銀行員で本当に誇りを持って仕事をしている人は、世の中にどれだけいるのだろうか。本書をもって、是非とも銀行の本分を考え直す一助としてもらいたい。