絵を描くことで、新たな知覚と気づきが手に入る。
眠っている自分の才能が目覚め、開花する。
はたして本当だろうか。この疑問に対し、本書は一つ一つ実例をあげて答えていく。
「絵が描けることは、0から1を生み出せることにつながります」
アートアンドロジックを主催する著者の増村岳史はそう説く。デッサンを書くことで、右脳と左脳のバランスを生かした思考能力を高める講座だ。現役プロの画家たちを講師陣にむかえ、主にビジネスパーソンを対象に「新しいものを発想していく能力」と、さらに「物事を俯瞰して捉え、調和のとれた思考能力」を身につけることができる。
受講生の多くは、意外にも成績は美術以外は優秀、といった人間が多い。小学校の美術の時間、先生から「思うがままに感覚で描きなさい」と言われた経験はないだろうか。原因としては、感覚で描いた作品に対し優劣がつけられ、絵を上手く描けるようになるには「感性を磨くしかない」と、思い込んでしまうことだ。これは西洋美術で印象派がブームとなった論理教育を、そのまま東京美術学校(現在の芸大)の教官が輸入し、伝えたことに起因している。現在も美術の授業がその様式でいるなら、1896年の学部開設から約120年ほど進歩がないことになる。
一方、デッサンが上手くなるコツとして著者のロジックに「数学的な物事の見方」がある。絵を描くことは感性を司る右脳も大切だが、論理を司る左脳と統合した能力が必要なのだ。
言われてみれば、マルスやヘルメスなど石膏デッサンを描くとき、ディスケル(デッサン時に使用する定規)で図ると一気に形がとれ、印象が似た経験がある。第7章の手を動かすレッスンでは、絵をトレースする際に反対にして描くことを推奨している。人間の印象は、目が大きくなるなどバイアスがかかるので、それらを制御できるのだ。感情が先行していると思われそうな岡本太郎も、画像を構成する前には、まず実際に描こうとしている絵を縮小した綿密なエスキース(下絵)から作っていた。
対象を長い時間かけて観察し、鉛筆タッチのスピードを変え絵に転写する作業は、論理を身体で習得していく野球でいう素振りに近い作業だ。とはいえ素振りなのだから、たとえ下手でも、失敗していても手で鉛筆を動かした経験は蓄積される。
こうしたデッサンの素振りを続けることで、あらゆる場面でクリエイティブな要素を生み出すきっかけとするのが狙いである。では、そもそもクリエイティビティとは何か?「私にはセンスのかけらもありません」、「ロジカルシンキングは得意だけれども、クリエイティブ思考は全く持ち合わせていません」という受講生も多いそうだ。
アートの歴史でいうと、これまで印象派が「対象物を感じたままに描く」のに対し、ピカソは「対象物を複数登場させ多面的に描く」ことでキュビズムを生み出したように、クリエイティビティとは組み合わせである。とはいえ、≪アヴィニョンの娘たち≫を初めて見た仲間の画家は、「ピカソはそのうち首を吊るだろう」と揶揄し、画商からは「狂気の沙汰」とまで言われてるので、あまりに斬新なアイデアが理解されるには、ある程度の時間と労力が必要かもしれない。
つまりクリエイティビティとは、既存のあるものに別のものと組み合わせることで新しいものを生み出すことなのだ。ただ、キュビズムまでいかなくとも、カレーとうどんを入れたアレンジを加えた料理の例でもあるし、クリエイティビティは日常を観察すれば誰でも発揮できる機会はある。左脳人間が右脳的思考を身につけ一日を生きるようになってくれば、大げさかもしれないが超感覚を感じて変化していくのではないか。
そして昨今のアートブームには目をみはるものがある。今アメリカでは採用の際、MBAホルダーよりもMFA(美術学修士)に需要がある。ビッグデータとロジックによる戦略だけでは、魅力的な商品は生まれずらいため、企業はデザインやアート性、さらにはストーリーを求めているのだ。
面白いことに、ソニーの元CEO大賀典雄は東京芸術大学を卒業した元オペラ歌手である。ソニーに入社するとロゴのフォントを大きくし、工業意匠をすべての製品を「ブラック&シルバー」に統一、広告を出すデザインを統一した。つまり企業ブランディングの先駆けである。彼のこだわりは常に「他社の真似はしない」ということだった。元アメリカ陸軍のアーティスト、サイ・トゥオンブリーは、暗闇の中で絵を描くことを思いついた。子供の落書きにしか見えないこの絵に、サザビーズのオークションでは約87億円の値段がついた。それまでの当たり前を一切否定し、思いつかないような手段で絵を描く行為を発明したことに対して評価されたためだ。
世界中を震撼させたアドルフ・ヒトラーも元々は画家だった。サー・ウィンストン・チャーチルも一度失脚した折に、絵画を趣味とし再起をはかっている。もちろん素振りをすれば花開くものではないが、デッサンから得られるものは大きいだろう。
実際に描くまでいかなくとも、右脳と左脳のバランスが気になる人には、ぜひ本書をおすすめしたい。
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