「本書は災害復興についての本ではない。災害の最中にーー警察や消防士たちが到着する前に、レインコートを着た記者たちがやってくる前に、惨事に対する何らかの見方が押しつけられる前にーー何が起こるのかについて述べた本である」
災害・テロ・事件・事故。もしもの時の、とっさの判断が本書のテーマである。有事に何をすべきかを並べたマニュアル的な内容ではない。なぜ、人は非常時に誤った判断をしてしまうのか。その背景には、人がそもそも持っている、どのような思考のクセが影響しているのか。そんな根本から考えていくスタンスが特徴だ。さまざまな惨事から生き延びた人々へのインタビューに加え、社会学者、心理学者、脳科学者、神経科医、テロ対策専門家、警察官、消防士など幅広く意見を求めて得た知見を、まったく他人事に思えないエピソードの数々を通して伝えてくれる。
非常事態にまず起こりがちなこととして挙げられるのが「否認」である。9・11でのワールドトレードセンタービルからの生還者の証言が取り上げられているが、たとえ後世に語り継がれる大惨事であっても、いざその場に居合わせるとなると、事の重大さを判断するのが想像以上に難しいことがわかる。生還者900人への調査によると、そもそも階下に向かうまでに平均で6分かかっており、中には45分も待った人もいた。犠牲になった人々も含めて考えた場合には、数字はもっと押し上げられるはずだ。他にも、約1000人がコンピュータを終了させるのに時間を割き、家族や友人に電話をかける人も多数いたという。階段を降りる段になっても、上がってきた消防士らとすれ違おうと脇に寄ってスペースを空けたことで動きが止まってしまったなど、時間のロスは至るところで生まれていた。命にかかわるほどの大きな脅威であればあるほど、私たちは自分の置かれた状況をありのままに受け入れられない。往々にして、その重大さを小さく見積ってしまう。
何が正しい行動だったのか後づけで語るのは簡単であり、9・11のように経験のない状況で適切に判断することがそもそも困難なのは確かだ。その意味でまた違った怖さを感じるのが、逆に経験が仇となって判断が狂ってしまうケースである。引き合いに出されるのは、2005年のハリケーン「カトリーナ」。犠牲者の4分の3が60歳以上、75歳超でみれば半数と、高齢者の被害が多かった原因のひとつとして、比較的被害の少なかった1969年のハリケーン「カミール」の経験を思い出したことで避難が遅れた可能性が指摘されている。実際、避難しなかった人たちの半数は本当にそうしたいと思えば逃げる手段を見つけることができた、という調査結果も出ているそうだ。離れて暮らす子供たちの警告を受け入れず家にとどまって亡くなった一人暮らしの父親の話などを読むと、経験は柔軟な判断があってはじめて活きてくるのだと痛感させられる。
人は危機に見舞われた時、パニックよりも「従順」になることの方がはるかに多いという話も興味深い。フィクションでもよくよく描かれるような非常時にパニックに陥る人々は、実際にはそれほど存在せず、むしろ従順すぎて手遅れになることに注意すべきだと著者は言う。ふたたび9・11の例だが、複数あったタワーのうちのひとつ、南タワーでは、その場に留まれという指示に従った結果、命を落とした人々がいた。「室内にとどまる」こと自体は、高層ビルの避難方法として一般的だ。ただしそれは原則であって、建物全体レベルでの避難が必要なほどのダメージを受けた場合は、逃げ遅れにつながる致命的な行動になってしまう。一昨年のロンドン高層住宅火災でも、勧告を無視して外に逃げ出した人が助かり、従って留まった人が命を落とした。従順さは的確な指示を出す人がいれば、スムーズな避難につながるかもしれない。だが、指示する側の想定を超えるような事態が起きることだって当然ありうるのだ。
他にも、ここまで書いてきた内容と深く関係する「集団思考」を掘り下げた章、さらには「恐怖」が人の脳に与える影響(時間がゆっくりになったり視野狭窄になったり)や、危機に際して体が動きを止めてしまう「麻痺」についての章など、豊富な事例とテーマが用意されている。ジャーナリストである著者の、臨場感に満ちた書き方も特徴的だ。体系的な整理よりも状況の描写に重きを置くことで、危機に直面した人々の思考を追体験するような内容になっている。
十分な備蓄、避難経路のインプット、徹底した避難訓練などが実を結ぶのも、危機に見舞われたことを正しく認識できてこそなのだ。もちろんあらゆる場合に通用する鉄則はなく、結局のところケースバイケースなのは大前提。その上で、人間にもともと備わっている思考のクセとどう付き合うのか。深刻かつ緊急な場面になるほど問われてくる話として、知っておいて損はないだろう。