本書『サピエンス異変』は、「人新世」問題を大胆に提起したノンフィクションPrimate Change: How the world we made is remaking us(Cassell, 2018)の日本語訳である。
2018年9月にイギリスで刊行された本書は、ガーディアン紙に「壮大なスケールで人類史を描いた」と賛辞を寄せられ、フィナンシャル・タイムズ紙の「2018年ベストブック」の1冊に選出されるなど高い評価を得ており、2019年3月にはBBCワールドサービスで番組化(全3回)されることが決定している。
本書のキーワードである「人新世」は、日本ではまだなじみが薄い地質学の概念だ。地質学上の年代区分によれば、最終氷期以降、つまり約1万一1700年前から現在までを「【完新世/ルビ:かんしんせい】」と呼ぶのがこれまでの通説だった。ところが近年、地球は新たな地質年代に突入したと考えられるようになってきている。2000年、この新しい地質年代の名称として「人新世」(アントロポセン=anthropocene)を発案したのが、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンだった。ちなみに「人新世」は、「人間」を意味するギリシャ語のanthropos、そして「新しい」を意味するやはりギリシャ語のkainosに由来する。
こうした流れを受けて、国際地質科学連合が2009年に人新世の証拠を集める作業部会を立ち上げた。調査の結果、作業部会は地球が人間によって永遠に変化させられたことを示す証拠は十分にあると結論づけた。人類が発明した多数の新化合物、核実験による放射性同位体、土壌に含まれるリン酸塩と窒素(人工肥料の成分)、プラスチック片、コンクリート粒子、ニワトリの骨などが地球上のいたるところで確認され、いずれも最終氷期が地球に残した爪痕に負けず劣らず証拠として強力だった。ニワトリの骨が人新世の根拠となるのは、人類が消費したおびただしい数のニワトリの骨が急速に化石記録の一部となりつつあるからだ。
人新世はあと1年ほどで国際地質科学連合に正式に認定される予定になっている。この新たな地質時代「人新世」を生きる私たちの身体にいま激変が起きている、というのが本書の著者の主張だ。しかも、この変化は進化によって起きたのではなく、私たち自身がつくり上げた環境に対する身体の反応だったという。進化が起きる速度はあまりに緩慢なので、私たちの身体は自身が環境に与える影響についていけない。その結果、人類の身体は環境に適応しきれていない――。
農業革命、産業革命、都市革命、デジタル革命によって、人類の食性、労働、ライフスタイルに著しい変化がもたらされ、私たちの身体にそうした変化の痕跡が刻みこまれた。土踏まず(アーチ)が消え、腰痛や骨粗鬆症などが頻発するようになった。家畜化によって、薬剤耐性を持つ病原体も続々と出現している。現代人は、いわゆる「ミスマッチ病」に悩まされるようになった。2型糖尿病やアレルギー鼻炎など、その昔アフリカのサバンナを駆け抜けた人びとにはあまり縁のなかった病気だ。
著者はさらに、ある気がかりな可能性を指摘する。人新世の影響で、作物がかつてより大量の糖を生産するようになり、ほかの栄養素が減っているかもしれないという。いまあなたが食べるニンジンは、しばらく前のニンジンとは別物だというのだ。原因は複合的と思われる。おそらく、私たちが甘い作物を好み、作物の収量と外見を優先したことがおもな理由だろう。著者にいわせれば、人新世のニンジンは私たちそのものなのだ。
インターネットの普及により、スマートフォンやタブレットを操作する現代人の手は酷使されていると一般に考えられている。しかし、そうではない、手はむしろ昔より弱くなっていると著者は反論する。それに、デジタルデバイスの操作に手が必要なくなる日はまもなくやってくる。視線や音声などで事は足りるからだ。ヒトの手はほかの霊長類に比べて原始的なのだそうだが、環境に働きかけるための理想的な道具となるよう進化してきた。だが、その手が必要とされなくなったらどうなるのだろう?
私たちはどんどん身体を使わなくなってきている。昔ほど歩かないし、カロリー過多の食物を好んで食べ、座りっぱなしで、とかく快適さを求める。巻末近くで、著者はこう提案する。これからも身体を手放したくないなら、身体の本来の機能を理解し、その能力を十分に活かすことを心がけよう、と。
本書の各部の最後に、人新世を生き抜くための著者の助言がある。もっと歩く、観葉植物を取り入れるなど簡単なものも多いので、実践してみてはいかがだろう。人新世が地球史に残らないほど一瞬で終わらないために。
2018年11月
訳者を代表して 鍛原多惠子