本書は、「欲望の資本主義」「英語でしゃべらナイト」「爆問学問」「ニッポンのジレンマ」「人間ってナンだ?超AI入門」「ネコメンタリー」など、異色の番組を次々と世に送り出してきた敏腕プロデューサー丸山俊一の手による、ドイツの若き天才哲学者マルクス・ガブリエルのドキュメンタリー番組「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」を、一冊の本にまとめたものである。
本書の主役であるガブリエルは、2009年に29歳の若さでボン大学の哲学科教授に就任した、ポスト構造主義(ポストモダニズム)以降の「新実在論(new realism)」の旗手として、今、世界で最も注目されている「哲学界のロックスター」である。
ドイツ語、英語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語、中国語のみならず、古代ギリシャ語、ラテン語、聖書ヘブライ語などの古典語にも精通しており、2013年に刊行した『なぜ世界は存在しないのか』(原題:Why the World Does Not Exist)は、哲学書としては異例の世界的ベストセラーとなった。
一体、若きガブリエルの何がそれほどすごいのか、なぜこれほどまでに世界中で注目されているのだろうか。それを理解するために、ガブリエル自身の言葉を借りながら、現代哲学の歴史を振り返るところから始めてみたい。
ドイツのマルティン・ハイデガー(1889-1976年)に始まる「実在論(realism)」は、第二次世界大戦後に、フランスのジャン・ポール・サルトル(1905-1980年)らの「実存主義(existentialism)」に受け継がれ、様々な国の運動として広がった。これは、人間の実存(事物一般が現実に存在することそれ自体)を哲学の中心に置く思想的立場であり、これを一言で表現すれば、「実存(existentia)は本質(essentia)に先立つ」ということである。
この考えは、キリスト教などにおける、人間には本質(魂)があり生まれてきた意味を持つという宗教的な考えを真っ向から否定するものである。第二次世界大戦ですべての意味が破壊される悲惨な状況を見て、人々は神が人生に意味を与えてくれなかったことを悟り、「自分の人生以外に、自分の人生に意味を与えるものは何ひとつない」、つまり、「まずあなたが存在する。そして、人生に意味を与える」と考えるようになった。
その後、1960年代に入ると、実存主義は、クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009年)、ジャック・ラカン(1901-1981年)、ミシェル・フーコー(1926-1984年)などの「構造主義(structuralism)」による厳しい批判にさらされ、それに取って代わられるようになる。
構造主義によれば、自分の主観は、自分を取り巻く文化的な価値観、家族、育った場所など、様々な要素からできあがった構造に依拠しており、それが人生に意味を与えるのだとされる。構造主義の祖・社会人類学者のレヴィ=ストロースが、世界各地の神話に共通で普遍的な構造が存在することを発見したことを契機としており、構造主義はそれを研究対象とし、そうした構造が何であるかを見つけ出そうと努めた。
更に、これへの反動として、1960年代後半から 70年代後半のフランスにおいて、静止的な構造を前提とする構造主義に対して、近代的な物語を解体して、「脱構築(deconstruction)」しようとしたジャック・デリダ(1930-2004年)に始まる「ポスト構造主義(post-structuralism)」(ポストモダニズム)が興る。
それ自体で完結した、時間の流れや歴史的な変化を考慮しない構造を分析しようとする構造主義は、生成や変化といったリアルタイムで進行しつつある出来事を扱い得ないものとして批判されるようになり、ポスト構造主義は20世紀の哲学全体に及ぶ大きな潮流となった。
しかしながら、その後、世界の歴史は、1989年のベルリンの壁崩壊とそれに続く東西ドイツの再統一、ソヴィエト連邦の崩壊という大きな転換点を迎えることになる。こうした大転換期を経て、当時は自由民主主義こそが人類の平和と繁栄を実現するための唯一の選択肢であり、希望でもあるように思われた。
ところが、2001年の同時多発テロ、2008年の国際金融危機(リーマンショック)へとつながっていくことで、人類がよって立つ、資本主義と自由民主主義という世界を支える二つの概念が大きく揺さぶられる中で生まれたのが、ガブリエルが主導する新実在論である。
実存主義にせよ、構造主義にせよ、ポスト構造主義(ポストモダニズム)にせよ、その根底にあるのは、社会構造というのは人々が共同行為によって作り上げている夢のようなものであり、そこには当初から意味を持った現実など何もないという理解である。
こうした前提に基づいて、人々は1960年代から1980年代にかけて、第二次世界大戦やベトナム戦争のような社会を抑圧する大惨事から逃れ、皆が自由になるために社会をどのように変えられるだろうかと構想したのである。
そして、こうしたポスト構造主義(ポストモダニズム)の思想が経済体制として結実したのが、今のネオリベラリズム(新自由主義)であり、更に、この社会的現実など何もないのだというポストモダニズム的な思考を、政治の世界に持ち込んで大成功したのが、第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプなのである。
ガブリエルの新実在論のポイントは、「本質主義(essentialism)」(個別の事物は必ずその本質を有し、それによりその内実を規定されているという考え方)対「相対主義(relativism)」(認識や価値はその他の見方と相対的関係にあるという考え方)という対立の図式から抜け出す第三の道を開くことである。
この点について、立命館大学大学院准教授の千葉雅也による『半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考』の解説が分かりやすいので、その一部を紹介してみたい。
千葉雅也は、一例として、富士山を、同時にAとBが見ている場面を挙げる。本質主義によれば、富士山が唯一の実在であり、AとBは異なる見方で富士山を見ているが、AとBそれぞれの視点における富士山は単に視点の相違にすぎず、実在的ではない。これを自然科学の立場から言えば、富士山の実在は物質的・数理的に説明され、それだけが真である。これに対して、相対主義によれば、我々は常に何らかの視点から見た、主観的な構築としての富士山しか知ることができず、実在的な富士山にはアクセスできない。
ポストモダニズム以後、こうした対立が解決できないまま残され、特に人文学においては、科学的世界像も含め、「あらゆるものは幻想である」という相対主義的傾向が強まり、それへの批判が繰り返し行われてきた。
こうした半世紀にもわたってくすぶり続けてきた哲学上の難問に挑んだのがガブリエルであり、それが故に彼の発言が今最も注目されているのである。
ガブリエルによれば、AとBそれぞれの視点における富士山があるのは確かだが、物事の実在はそもそも特定の「意味の場」と切り離すことはできず、それは単なる主観的な構築ではなく、それぞれが実在的である。そして、富士山とは、諸々の実在的な見方の交差のことであり、「意味の場」から独立した富士山「自体」は考えようもない。
ここで、ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』で言うところの「世界は存在しない」の意味が明らかになる。「世界」とは、実在のすべてを包括する最大の集合を意味するのだとすれば、実在的視点は際限なく増加するから、そのような包括はできないということである。
ガブリエルの新実在論は、「存在する」ということを「意味の場に現象する」ことととらえているという意味で、新しい実在論ということができる。他方で、こうした無限の意味の場をすべて包摂する意味の場(世界)は存在しないという意味で、無世界観を唱えているのである。
見方は様々だという相対主義だけならまだ「認識論(epistemology)」の内側にとどまるが、ガブリエルはこのように、「存在論(ontology)」にまで相対化を徹底しているのである。こうしてガブリエルは、特定の意味の場を特権化し、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だとする、世の中で広く支持されている科学主義の立場にNOを突きつける。非科学的な実在性も、ファンタジー的な実在性もあるというのである。
ここまでが、千葉雅也の言及している、『なぜ世界は存在しないのか』のポイントなのだが、本書『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』では、逆に自然科学の重要性が繰り返し強調されている。
ガブリエルが否定しているのは、科学が唯一の意味の場となって、そこから人間が取り残されてしまうことであり、逆に、事実を認識して知識を獲得する手段としての科学については、人々が道徳観を形成する上で絶対的に重要であるとしている。
相対主義というのは、「ものごとの事実などないと論じる」ものである。これを道徳に当てはめてみると、現代の人々の多くは、世界には様々な道徳観があるという「道徳的相対主義」が正しいと考えている。
道徳的相対主義者は、西欧には西欧の、ロシアにはロシアの、日本には日本の道徳観があり、「これらの道徳観の善悪を決する基準などない」と思っている。しかしながら、もしそれが真実なら、「正義などなく、あるのは征服だけである」ということになる。実は、それがトランプの世界観であり、ビジネスモデルなのである。
ガブリエルの新実在論は、こうした考え方を真っ向から否定する。相対主義が一般的に常に正しいのであれば、例えば、「子どもを拷問していいか」という質問も相対化されてしまう。ところが、実際にこうした質問をすれば、国や宗教のいかんを問わず、絶対多数の人間がNOと答えるだろう。それはつまり、世の中には「道徳的事実(moral facts)」が存在するということを意味している。こうした道徳的事実は、「他人の立場になって考えてみた時にわかる類のもの」である。
但し、それは、自分が全ての事実を承知していて、状況を正確に理解していることが前提条件となる。もし知識と科学を攻撃する者がいて、そのねつ造に成功すれば、我々は道徳的になることが不可能になってしまう。例えば、気候変動を否定する人々は、科学の専門家を攻撃し、知識を葬り去ろうとしているのであり、これがトランプに代表されるような権威主義的な人間が科学を攻撃する理由なのである。
そして、本書の一番重要なポイントとして、ガブリエルは最後に次のように語っている。
僕らは、今こそ、本当の事実を見つけ出すため、人類全体として力を合わせはじめなければならない。経済的事実、宇宙に関する事実、そして道徳的事実。もし僕らが、何が事実か、何が明らかな事実かを知りさえもしなければ、民主主義の出番など絶対にないだろう。なぜなら、民主主義とは、乱暴に要約すれば、僕が「明白な事実の政治」と呼ぶものに基づくべきものだからだ。それこそが守るべき価値だ。民主主義は人々が実際に知っていることを集め、僕らが実際に知っている点と点を結び、現実の系統的解釈を考え出す。そして現実の系統的解釈の上にのみ、つまり特に「現実がどのようなものかを知ることなどできない」という幻想を乗り越える解釈、この基礎の上にのみ、僕らの時代における大いなる疑問に答えはじめることができる。・・・僕と君は、根本的には同じだ。現実と道徳的事実がどのようなものか知る能力を持つ人間であり、動物だ。人間であり動物であることの合理性に関するこの洞察を、僕らの教育システムに組み込みことがとても重要だ。そしてようやく、僕らが絶えず直面する嘘やフェイクニュースを疑いはじめることができる。そして哲学はこれを手助けできる。なぜなら哲学の義務はイマヌエル・カントがすでに18世紀に古代ローマの詩人、ホラティウスの言葉を引用して、言った通りだからだ。Sapere Audeすなわち、知恵を持つことに勇気を持て!
本書の終章で、著者の丸山俊一は、以下のような西田幾多郎(1870-1945年)の『日本文化の問題』言葉を引用し、西田哲学とガブリエルの思想の興味深い符合について語っている。
動物から人間に進化したと云つても、人間は動物でなくなったのではない。動物の生命と云つても、既に自己矛盾的である。私は人間は動物を反極として有(も)ち、動物は人間を反極として有(も)つと云ふ所以である。人間も動物も創造物である。衆生である。・・・但人間は作られたものから作るものとういふ歴史的生命の極致に立つものである。神其像の如くに人を創造したまへりと云ふ如く、矛盾的自己同一の頂点に立つのである。そこに人間は絶対矛盾的自己同一に面する。神に対して立つと云ひ得るのである。
およそ80年の時を経て共鳴する東洋の叡智とヨーロッパの知性の不思議な一致に、我々は何を読み取るべきなのか。
12月27日には、「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」からのスピンオフ番組、「欲望の哲学史 序章」が放送される。ガブリエル自身が第二次大戦後の哲学思想の流れと、彼が提起した「新実在論」に至るまでの変遷を語るというので、こちらにも大いに期待したい。
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