今年読んだ新書の中で、文句なしにNo.1の一冊。平易な文章で書かれ、分量もコンパクトだが、奥が深い。
昨年、『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか』がヒットして以来、教養とビジネスの関係に注目が集まっているが、本書もまた同様の趣きをもっていると言えるだろう。
著者の片山杜秀氏は、クラシック音楽の歴史を追いながら、顧客が誰であったかという点にフォーカスを当てていく。さらに顧客のニーズを満たすための要件が、どのように時代を推進する装置になり得たかという解説にも余念がない。だからどんなビジネスマンが読んでも面白い。
この背景には、音楽というジャンルが文学やアートに比べて、時代のニーズの影響をダイレクトに受けやすいという特性がある。
音楽は演奏され、誰かが聴いてくれることではじめて成立する芸術だ。再現するために多大な人的・物的動員を要するジャンルの常ではあるが、事前にスポンサーとの合意を得なければ世に知らしめることすら難しくなってしまう。そこが、一回印刷されれば誰でも読める文学作品や、一度描いて飾っておけば誰にでも見られる絵画とは一線を画すのだ。
本書は、冒頭でヨーロッパ音楽史の起点を中世に成立したグレゴリオ聖歌に求める。音楽を受け取る主役の座がその時点で教会であったことは言うまでもないが、それがやがて王侯貴族、さらには大都市の市民層へとダイナミックに移り変わっていく。
多くの人にとってのクラシックの系譜は、バッハ→モーツァルト→ベートーヴェンの順に記憶されていることだろう。本書における紹介もその例に漏れるものではないが、バッハとモーツァルトについては、それぞれが必ずしも時代のニーズに応えてられてはいなかった。
バッハ(1685年 – 1750年)はいかなる時も、秩序を探求することに余念がなかったという。この感覚は中世の時代には受け入れられやすいものであったが、バッハが生きたのは人間を中心とするバロックの時代。中心秩序より変化、静より動を求める当時の人々にとって、バッハの音楽は高度かつアナクロすぎて、よく分からないものであったようだ。
そしてモーツァルト(1756年 – 1791年)が活動した時代は、各国の宮廷が衰えを見せながらも、まだ市民層も力を持っていないという移行期であった。そんな狭間の時代に生きたということが、モーツァルトの運命を不安定なものにしていたのである。
一方で、時代の波との完全なるシンクロに成功したのが、ベートヴェン(1770年 – 1827年)、その人であった。著者はベートヴェンの音楽の特徴を「わかりやすくしようとする」「うるさくしようとする」「新しがる」の3点に集約する。
時はフランス革命の時代。着実に力をつけていく市民へアピールするためには、明快で覚えやすいメロディをどんどん投入する必要がある。これを臆面もなくできたのがベートーヴェンであった。
そして街の騒音が大きくなるのと比例するように、ベートーヴェンの操る音量も大きくなり、さらには、何らかの新しさを不断に示し続けることで、顧客たる市民に熱狂をもたらし続けた。ここにクラシック音楽は、特定の人の権威を示すものから市民の娯楽になることを運命付けられたのである。
だが本書では、もう一人、時代とのシンクロに成功した人物が紹介されている。それが、ワーグナー(1813年 – 1883年)だ。彼が生きたナポレオン戦争から普仏戦争までの間に、ヨーロッパに広まりつつあったのがナショナリズムの高揚という現象である。
このような市民のニーズに、ワーグナーの音楽が触媒として果たした役割は大きい。ローカルな神話や伝説の世界を追い求め、理想の世界を反転させドイツ民族の源郷として設定したワーグナーは、ある意味現実のドイツに先行して、理想のドイツを創造してしまったとも言えるのだ。
資本主義や民主主義の広がりとともに「市民社会」というスタンダードを形成されていった19世紀。時代の主役となった市民の熱量が、ベートヴェンの『合唱付』を生み、さらに「民族」の結集となって、ワーグナーを支えたのである。
一方でバッハやモーツァルトが、その後の時代で再評価されていく点も興味深い。バッハは市民が楽器を習うようになった19世紀に、モーツァルトは第一次世界大戦以降の不安な時代に、それぞれが音楽のプロの再解釈によって蘇っていく。ここには、クラシックの主役が娯楽と捉える層から権威と捉える層へと先祖返りしていく逆回転の現象が見られる。まさに時代は巡ると言えるだろう。
平成を音楽で振り返る、そういった企画を目にする機会も多いかもしれない。しかし近代をクラシックで振り返ることからも、学べることは実に多い。いつの時代も音楽は、時代を作り出してきた。それは音楽を広めるという行為が、マーケティングそのものであったからに他ならない。この普遍性は、クラシック音楽にも存分に詰まっているのだ。