銭形平次、人形佐七、三河町の半七…テレビドラマや小説で人気の親分たち。近年では中村梅雀さん演じる黒門町の伝七がよかったなあ。かつて同じ伝七を演じて大ヒットを飛ばした父上・中村梅之助さんから、亡くなる直前に秘蔵の十手コレクションを託されていたとか。劇中で使われていたのがその十手なのかどうかは定かではないが、紫房の十手を大切に神棚に祀る姿は、亡き父上への敬意を胸にこの役を受け継いだのであろうと思われて、なおさら感動し楽しく拝見した。いいねえ、時代劇。江戸の人情。人の世は情。そして正直、まっつぐこそ庶民の心意気…。「よよよい、よよよい、よよよいよい!めでてぇな!」
ところが!岡っ引き、すなわち目明しの実態は、ドラマや小説とはかけ離れているのだという。そもそも十手は用がある時だけ貸し出され、捕り物が済んだら取り上げられるので神棚に祀るなんて無理無理。いやそも、建前では目明しは「存在しない」。いないけれどいる。いるけどいない。だってもともと犯罪者。その前科前歴ゆえに現役犯罪者世界にくわしいので、非公式に重宝される存在だったのだというのだから、ずいぶんイメージが違うのだ。いや元犯罪者どころか、なまじお上のご用の下請けをいいことに、ゆすりたかりも珍しくない、なかなかに厄介な方々だったと聞けば「えーっ!そーなの?」と声をあげたくなるではないか!いやいや、そりゃ、中には悪い奴らもまじっていたかもしれないが、大方はまじめに江戸の治安を守っていたのでは? そのへん、どうなんだ…。
というわけで、掘り起こされる目明しの実態がすごい!証拠品である盗品を勝手に売り払うわ、貸金の取り立てを請け負って債務者に無実の罪を着せて返済を迫るわ、隠売女の上前をはねるわ。入牢者の妻に恩を売って関係を迫り、挙句売春宿に売り飛ばすっていうのは、「あ。先日仕事人シリーズの再放送で見た! あの悪徳親分の方がリアルな主流派だったのか!」。
だが、こうした目明しの悪行がまかり通ったのには、やはり社会的な背景・構造の問題があることもわかってくる。目明しが特に重用されて跋扈するようになるのは「天保の改革」期なのだが、幕藩体制の権威が揺らぐなか、庶民を取り締まり締め上げるために都合よく使われる目明し。「お上」がいかに理不尽な規制を庶民に敷いたか。言論や表現を抑圧し、芝居や書物やファッションを統制し、自由な商売を制限する。その数々の「無理強い」も本書が教えてくれるが、こんなことを押し付けようものならそりゃあ体制に矛盾も歪みも生まれようというものだ。事細かな実例を、ぜひ、本書で見て欲しい。権力というもののむき出しの本性がうんざりするほど書かれている。
江戸の治安を守る体制が脆弱だったこともある。幕末で江戸市中の取締まりを行う町奉行所の与力がたったの23騎、その下の同心が140人。南北の奉行所があるので掛ける2、他に火付盗賊改などなど、合わせてざっと同心340人。事務だのなんだのにも人を割くので、市中を巡回するのは実質、定廻り6人、臨時廻り6人、隠密廻り2人の計14人。南北奉行所合わせて28人のみだというのだ。ドラマ『江戸の七人』は、あれ、ガチに与力の青山様プラス同心6人だったのか!(ちなみに本書では、目明しのみならず与力や同心の悪行も明かされる。読み応えあり!)。
そこで治安を維持するのは町名主の役割となる。いわば民間委託なわけだが、彼らは真人間。到底裏社会まで抑えきれない。ならば元犯罪者を使って、いわば毒を持って毒を制し…というわけだ。なるほどなるほど。
ある意味「時代劇のファンタジー」をことごとく吹き飛ばすのが本書なのだが、読んでいくうちに「江戸」という町の生々しい息遣いが伝わってきて面白くなってくる。法と実態、建前と本音の間で、いかに混沌とした社会を“持たせる”か。せめぎ合いである。社会をシステムではなく、属人的に動かすとどうなるか。興味深い。昨今の「法治より人治」みたいなことがまかり通る幾つかの事例を思い起こせば、この天保時代の江戸の町も、なかなかリアルである。
さて、時代劇好きとしては。従来の時代劇ファンタジーはおおいに楽しみつつ、「目明しピカレスクロマン」とでもいうジャンルがあってもいいような気がしてきた。時代が求めるドラマが生まれるのは必定なのだ。現在の「勧善懲悪、正義の目明し」像が生まれたのは、戦前。言論の自由が極端にせばめられていた時代に、江戸時代に仮託して庶民が権力に抗し、悪徳商人を暴くという「正義を実現する人物としての目明し」が人気を博したのが始まりなのだという。目明しの虚像が生まれたのは、抑圧された庶民の意気地という土壌なのだ。さて、このさきのこの国でリアリティをもって受け入れられる目明し像とは? 想像と期待は尽きないが、できることならその「土壌」は「自由」であってほしいものだ。