被差別部落や赤線という言葉が、ノンフィクションというジャンルを読み始めて、目に止まるようになってきた。ノンフィクションを読まなかったら、例えば新聞や雑誌でそれらの言葉を目にしたとしても、特別興味をもって立ち止まるようなことはなかったかもしれない。ただ、読む本のジャンルが広がると同時に、それらの言葉が自分が生きる上でとても重要な意味を持つのではないかと思うようになってきた。興味があるというよりは、見逃してはいけない「何か」として、心に引っかかるようになった。
よく同年代の友達と話していると「どんな本を読むのか」という話になるが、学生時代に読んだ鹿島茂の『馬車を買いたい!』や『パリ、娼婦の町 シャンゼリゼ』や、井上理津子の『さいごの色街 飛田』などの影響を受け、貧困や差別、むき出しの性の話から目が離せなくなった。ルポタージュを読むことは、生活のなかで見逃してはいけない「何か」を察知する訓練になるのではないか。「○◯を知らぬ若い世代が増えるなか」という文句を街や書店で見る度に私はとても不安になるが、時代と共にこの世から消え去ってしまう「何か」を自分のなかに残そうとして、焦りながらもそれらの本を手にとってしまう。
本書は、著者の上原善広が北は北海道から、南は沖縄まで、全国の「路地」を旅したルポタージュをまとめたものである。昔の事件、事故、怪談話、非合法な商売、町からなくなってしまった馴染みのお店など、全部で15章だ。「何か」を頭の片隅に仕舞い込むように、丁寧に読んでいった。
第2章「怨念のニレ」は、北海道のとある土地にある楡(にれ)の木の前に立っていた看板だが、その木を切ろうとすると必ず不慮の事故が起こるという伝承が書かれていた。アイヌの娘が惨殺された場所らしいのだが、ある日著者が再び訪ねてみると、その看板は撤去されていた。著者は丹念に取材し、そこには道北に住むアイヌの人々の感情の変化を読み取る。
第3章「八甲田の幽霊」では、「八甲田大量遭難事件」(明治35年に大日本帝国陸軍の青森第五連隊が陶器の雪中行軍訓練中に遭難し、199人の犠牲者を出すという歴史的大惨事となった事件)以降、その土地で、ある”幽霊事件”が勃発しているという噂を聞きつけ、実際に張り込みを行う。著者がどうしようもなく惹きつけられた、青森県の津軽地方に残る民話の正体とは何か。
第10章「新世界の女」では、大阪天王寺駅から徒歩15分行ったところにある、新世界で、「老婆の立ちんぼ」が出没するという。立ちんぼとは、非合法の売春婦を指し、高齢となるとほとんどお目にかかれない。著者が目を凝らして街を見ていると、確かにそれらしき婆さんたちがいる。交差点の角に折りたたみ椅子を持ち出して座る婆さん。「買うてくれはんの」「うん。いくらなん」「一本やねん」ホテル代込みの1万円で交渉成立。なぜ新天地に居着くことになり、婆さんと呼ばれる歳になっても続けているのか。本章の著者の最後の言葉が、私は好きだ。
外観ばかりはきれいになった新世界だが、いくらでも裏側があるのがこの街の魅力である
旅慣れた著者が、旅について語る場面では、全国500以上もの路地を訪ねてきた著者だからこそ、見える町があり、出会いがあることを読者に伝えてくれる。
最近は「どの地方もチェーン店が多くて、個性がない」という評判をよく聞くが、それは自分の体験上、旅人がチェーン店しか目に入っていないためだと思っている。その町を訪れるということは、訪れた人も試されていると考えた方がよい。とはいえ、私も再訪するたびに新たな発見があり、時々、自分の無学と鈍感さに呆然とさせられることがある。
そして、本書を通じて、終始持ち続けた疑問がある。
なぜ、著者は「路地」を旅し続けるのか。
あとがきには、著者がたどり着いたひとつの答えのようなものが載っている。本書は、2011年からおよそ7年かけて出版されたものであるが、その期間、著者は睡眠薬と精神薬の中毒の時期と重なっていた。著者の苦しみ、その苦しみの果てに導かれたひとつの回答とは?
先入観や一般論に囚われない著者だからこそ、旅先で出会った人々は心を開き、著者に身の上話を聞かせてきた。そして、「ありがとう」「また来てね」で手を振って別れるある種の温かさと安心感をどの章の最後でも感じることができる。「路地」に赴き、行きずりの人とほんの少し関わりをもつ。読後私は温かい気持ちになったが、皆さんはどんな気持ちになるのだろうか。