「タイムトラベル」といえばこれを読んでいる多くの人は「あーはいはい」とその意味するところをすぐに理解してくれるだろう。空間のように時間を移動することができて、未来に行ったり過去に行ったりできるアレのことだ。もちろんタイムトラベル事象は我々の生活の身近なところにあるものではないけれども、邦画でも洋画でも、漫画でも小説でも「タイムトラベル」が出てくるものはいくらでもあるから、なかなかこの概念を知らぬままに生きるのも難しい。
しかし、この「タイムトラベル」という概念はいつ頃生まれたのだろうか。あまりにもよく知っている、よく(フィクションの中で)用いられているものだから、神話の時代からあるだろうと思ってしまうが、実はその起源はごく浅いと著者はいう。
(……)古代人には、永遠の命、生まれ変わり、死者の国といった概念はあったが、時間旅行という概念はなかった。現代人には馴染み深い「タイムマシン」など、まったく想像の外だった。時間旅行とは、いわば「現代ならではの空想」ということになる。つまり、ウェルズがランプの灯りに照らされた部屋でタイムマシンを空想した時、彼は同時に従来にない新たな思考様式まで作り出したということだ。
なぜそれ以前にはなかったのか。なぜ、そのときにそれが生まれたのか。
というわけで本書は、「タイムマシン」や「タイムトラベル」という概念がなぜそれ以前には生まれなかったのか、またそれ以前の「時間」の捉え方はどういうものだったのか。タイムマシンが生み出された時、人々はどのような反応を持って受け入れ、その後時間観と呼べるようなものはどう変化していったのか。アリストテレス、ニュートン、アインシュタインといった時間についての考証の流れ、物理学的な意味での時間の変遷、哲学的、SF的、文学的な探求など、さまざまな観点から”時間”とは人間にとって何なのかを解き明かしていく一冊になる。
時間という中心軸があるとはいえ、時間が関与する領域はあまりに広く、さっきまで長々と物理についての時間の話をしていたと思ったら今度は何冊ものタイム・トラベル小説の紹介をはじめて──と雑多な印象も与える本だが、むしろそれこそがおもしろい、それこそが時間というとらえどころのないものだろうという感慨も沸き起こる全部載せの本である。
なぜウェルズ以前にはタイムマシンがなかったのか
そうはいっても著者に意義を唱えたくなる人もいるかもしれない。たとえば、H.G.ウェルズが『タイムマシン』を書くまでそんな概念がなかったといっても、日本には龍宮城へいってかえってきたら身近な人が誰も残っていないほど年月が経過していた浦島太郎だっているし。ヒンズー教の聖典である『マハーバーラタ』にも、天界に行って地上に戻ると長い時間が経って知人がみな死んでいたという話があるらしい。いくつも同様の作品自体はあって、「タイムトラベルらしきこと」は過去からあったわけだが、それ自体には著者もちゃんと言及している。
ここで厳密に「それ以前になかった」と言っているのは、偶然長い時が経って未来に行ってしまったという偶発的未来行のことではなく純然たる旅としてのタイムトラベルの概念なのだろう。実際問題、英語の文献に最初に”Time Travel”という単語が出てきたのは1914年のことで、その歴史はまだ100年ちょっとしか経っていない。というわけで少なくともかつての人間は偶然そうなる以外には能動的に、「未来/過去にいったらどうなるんだろう」とは考えなかったようなのだが、それはなぜなのかというのが本書で行われる第一の問いである。
もちろんそこには幾つもの答えが絡み合っている。まず第一に重要なのは、過去の人達はあまり未来というものに興味がなく、時間への認識自体があやふやだった。19世紀から20世紀、20世紀から21世紀に移り変わる時、人々は大騒ぎをしたが(前者は体験してないが)、西暦1800年頃の人々は翌年から世紀が変わることに特に注目せず、そもそも100年という区切り自体にあまり意味を見出していなかった。「世紀が変わる」という表現自体、19世紀から20世紀に変わる時にはじめて使われたのだ。そもそも、今のように技術の進展が大きくない時代では、100年経とうが200年経とうが世界が大きく変わるという発想があまり湧いてこなかったのだろう。
『トマス・モアが『ユートピア』を出版した一五一六年当時、未来に関心を持つ人はほとんどいなかった。未来の世界が現在と大きく違うものになるという発想がなかった。』というように。ところが、人間はある時、時が経つことでその先には何か新しいものが生まれている可能性に気づいたのだ。そのきっかけとなったのが、グーテンベルクの印刷所であると著者はいう。これによって文化が保存されるようになり、産業革命が起き、『社会が誰の目にもはっきりわかるほど、急速に変化するようになった。』急速な変化が起きると過去を懐かしむ人も増え、未来と過去の概念がはっきりとわかれていく。ウェルズが『タイムマシン』を書いたのは、ウェルズの才能ももちろんあれど、時代の要請といった側面も大きかったのだろう。
かつては同時性なんかなかった
今は当たり前だけれどもかつては存在しなかったもの路線でいくと、「同時性」の概念もおもしろい。我々は日常的にロンドンでは東京から時差-8時間、日本標準時と協定世界時の時差は9時間などある程度世界の時間を意識しているが、かつて時間はすべて地域固有のものだった。そもそも移動手段もなければ通信手段もないのであれば、場所による時刻の違いなんて考える意味がないのだから当たり前のことだ。それが鉄道が生まれ、長距離通信も行われるようになり、この世界には時間管理局が生まれ、地域間で時刻の統一が図られるようになった。
時刻を統一するといってもそもそも各地で暦が違うので統一しないといけないわけだが、これもなかなか難しい。第一次世界大戦後に発足した国際連盟はカレンダーの統一を掲げ、グレゴリオ暦を採用しようとしたが、たとえばロシアやブルガリアはそれを採用すると何もしてないのに一気に13日も国民が歳をとってしまうので異議を申し立てた。たしかに、意義は大きいだろうが、ろくに関係のない暦に合わせるために13日も歳をとらされたら虚しいよね。
おわりに
と、ざっと紹介してみたがこれでも本書の膨大なエピソードの中の3%ほどではないだろうか。
他にも、時間についてボルヘスは「川」だと表現し、プラトンは「永遠の揺れ動く写像である」といったなど、哲学者や文学者、物理学者がそれぞれどのように時間を表現していたのかも個人的にはぐっときたポイントだし、『タイムマシン』が刊行された時、多くの人がこんなことは科学的にありえないと批判した話とか(そもそもフィクションだが)、親殺しのパラドックス、パラレルワールド、時空の柔軟性の話など、フィクションや哲学上で扱われるタイムトラベルにまつわるアイディア、矛盾など、どこを取り上げてもおもしろい話題ばかりである。
タイムトラベルのみならず、「時間」そのものに興味がある人すべてにおすすめしたい一冊だ。