迷いはない。
不安もない。
キャンバスに向かう。筆をとる。線を走らせる。絵の具が混ざり合う。大きく広げる。筆を動かす。指を動かす。絵の具が音をたてる 。
色が意味を持つ 。腕も、顔も、服も、裸足のつま先も、絵と一体化する。いつのまにか、私は絵の母となる。
冒頭のことばだ。歌でも書でも踊りでも、優れた表現者の言葉は魂に響く。著者とは現代アーティストの小松美羽。2015年、有田焼とコラボレーションした狛犬の立体作品『天地の守護獣』は大英博物館・日本館に永久展示された。この作品は「しっぽを振る狛犬」と呼ばれているが、大英博物館の女性キュレーターであるニコル氏は、はじめてこの作品を見たとき、魂が通いしっぽを振ったように見えたそうだ。一方、世界最大級の美術品オークションのクリスティーズにて絵画『遺跡の門番』を出品/落札。出雲大社にも絵を奉納し、4ワールドトレードセンターにも常設展示されるなど活躍をみせる。興味深いのは、本書が出版された時点で彼女が33歳という若さである。
※現代アーティスト草間彌生は89歳。
著者本人は容姿端麗、デビュー当時は「美しすぎる銅版画家」とメディアから呼ばれていた。幼少の頃、とある不思議な体験をしたこともあり、作品は狛犬など神獣が主なモチーフとされる。しかし静謐な印象の画面ではなく、対照的に生み出されるタッチは豪快で、野太く描かれる黒は暴れているようだ。モチーフは目を見開き妖怪のようでもあり、荒々しく牙をむき出しにした獅子など、強靭なエネルギーが作品に包括される。
現代アートは、村上隆氏が『芸術闘争論』をはじめ口酸っぱく論じるように、欧米主体のアートルールには確固たる不文律が存在する。作家自身は、それらをふまえ、生き様を含めコンテクストを構築するのが定石だ。「死」をテーマとし、サメを輪切りにしホルマリン浸けしたケースを展示したダミアン・ハーストや、便器にサインを描き「新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした」と日用品について新たな概念を導入したマルセル・デュシャンなど。作品と人物には知的ゲーム要素を含めた要素、コンテクストが伴う。レオナルド・ダ・ヴィンチは科学・医学・天文学にも精通し、デッサンは人間技とは思えない精度でアートディレクターでもあるが、そのような天才型とも彼女は違う。
著者の作品には、人の顔よりも巨大な目の存在や、口を大きく開け、さらに舌の先端は龍のかたちになる動物でもない妖怪でもない、お化けのような存在が登場する。直観的にそれらはどこか私達のふだん蓋をして使わない心に訴えてくる。それはエゴや妬み・嫉妬・競争心など私達の感情における負の側面ではないか。その暗黒面を強調し、引きずり出す。それは1990年頃、日本の美大・特に版画科等にみられた「自己の闇」を放出する世界かもしれない。国内では美大でも欧米ルール主体のアート自体を教えることがでらず、(先生や教授も答えを知らない)結果ふわっとしたコンセプトから著者のようなスタイルに近くなる人はいる。そうなるとアートヒストリーとは無縁であり、アートの不文律にも属さない姿勢と活動は、大きな挑戦ととらえることができるのではないか。
日本画の巨匠であった平山郁夫は、存命中は黒板サイズの絵に3億ほどの値がついた。しかし世界のコンテクストとマーケットに沿わないドメスティックな活動であったため、400〜500年たった後にも世界でのアートの文脈に残るかは疑問が残る。
著者は、それよりも純粋に「アートは魂でつながるための道具」として制作している。一見、ぐちゃぐちゃのような構図であっても、激しく跳ねた筆あとや血のような赤など観る人の視線が各所に移動させやすく目が離せない。そのため作品自体には見た人を惹きつけてやまない魅力がある。これは天然型のゴッホ的作家に近いかもしれない。一見、顔をしかめてしまいそうなほどの乱暴な筆づかいも、よく見れば赤や青、明るい黄色など様々な色が入り、それらは観る人にとっては闇の中にある希望ととらえるだろう。
本書では著者の思春期の悩みや人との関わり、見えない世界の話や世界のアートシーンについて語られている。キャッチにはこれまで著者の経験を通じ、読んだ人にそれぞれの「これから 」を見つけてもらうための本、とあるがそれは便宜上かもしれない。ただ段ボール箱を机に、アトリエとして制作した苦労時代や、恩師となる人物に出会い世界のアート界で活動するプレッシャーからハート型のハゲができてくるエピソードなど、私たちと同じく常に生きづらさや不条理を抱えている。それらを包括した上で、自分の内面と対話し葛藤し、著者は泥臭く絵に置き換えてきた。この活動は論理武装を超えた、彼女がしかけるアート界への挑戦なのかもしれない。
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