あなたは何色が好きですか?
と聞くと大抵の人はペラペラとこんな色が好きですと答えてみせる(僕は灰色だ、地味だから)。初対面同士の飲み会ならなんか嫌いなものor食べたいものでもあります? と聞くものだし、映画や小説など、作品を鑑賞する際にも、好みは密接に関わってくる。巨大人型ロボット物は嫌い、という人もいれば巨大人型ロボット物ならなんでも大好き! という人もいるものだ。
その違いはなぜ発生しているのだろうか? 食べ物に関してはアレルギーなどがあるだろうが、そうでない場合は何が関係しているのか? 育ってきた環境の違いか、進化論的に脳に組み込まれているのか? 日々の選択は現在、未来の嗜好にどのような影響を与えていくのだろうか。ひょっとしたら、好き嫌いは完全にただの思いこみだったりするのかもしれない。本書『好き嫌い―行動科学最大の謎―』はそうした好き嫌いに関連した行動科学についての一冊である。
ただ、これはなかなか難しい問いかけだ。そもそも好みとはなんなのかというところからしてあやふやである。食べ物ならまだ組成的な分析も可能だろうが、絵画、音楽などの芸術ジャンルに属する「好み」をどう分析するんだろうか。そうやって最初はいぶかしみながら読み始めたのだが、ネットフリックスで行われていた5つ星評価と実際に最後まで見た映画はなんなのかという視聴データのズレ、芸術を鑑賞中の脳活動を観測したうえで比較する、神経科学的アプローチなど無数の方向から「好み」とは何なのかを検討していて、大満足な一冊であった。
あなたはなぜ特定の色を好むのか
さて、それでは内容をざっと紹介してみよう。まずは「色の好みはどのようにして決定されているのか」についてだけれども、カリフォルニア大学バークリー校の心理学教授スティーヴン・パーマーとその共同研究者によると、『私たちは最も好きなものの色を好む』という。
青い空、綺麗な水、といった良い印象を与える何かと紐付いた色を好むようになり、嘔吐物などを彷彿とさせる茶色がかった黄系統の色は人気がないとする。暗褐色の服しか持っていないこっちからすると腑に落ちないところもあるが、人によって目にする色の印象、頻度が異なることも関連しているのだろう。たとえばカリフォルニア大学生とスタンフォード大学の学生に色について質問したところ、学生たちはどちらも自校のスクールカラーを好んでいるのがわかったなど、フィードバックループ(ある色を見る機会が多く、それが好ましいものであるほどその色が好きになっていく)がはじまることで、色の好みが形作られていくという仮説がある。
星評価よりも実際の行動に注目する
常日頃からレビューを書いていることもあって興味深かったのは、星評価、レビューと実際の好みの関係性を追った第1章「誤りは私たちの星評価にあるのではなく、私たち自身にある」。
ここでは最初に、ネットフリックスにおける、次に観るべき作品のレコメンドアルゴリズムをどのような発想で構築しているのかが語られていくが、その鍵は”好きだと視聴者が言ったものではなく、視聴者が実際に見たものへ”というアルゴリズム基盤の転換にある。もともとネットフリックスでは視聴者がどういった作品を高評価したかといった観点からレコメンドしていたが、実は星評価は単純に人の好みを反映したものではないことが近年わかってきた。
イエリンがいうには、人は「自分ってこうなんだと思いたいんです。こういう自分というのを思い描いて、自分で自分にうそをつくことさえありますよ──どういう種類の作品を好きだというか、ある作品に星をいくつつけるか、本当は何を見るか」。『ホテル・ルワンダ』に星五つ、『キャプテン・アメリカ』に星二つをつけておいても、「見るのは『キャプテン・アメリカ』だったりするんです」
たとえ自分のその選択を自分以外の誰もみていなかったとしても、人は自己演出的に評価をするようだ。たしかに、深く意識したことはなかったけれども、自分を振り返ってみてもそんな傾向がないとは言い切れない。だからこそネットフリックスは星の評価ではなく実際の視聴行動を元にしてレコメンドを決定し、星2,や3の作品がオススメされてくるようになったのだ(今はもうネットフリックスでは星5評価はされていない。サムズアップとサムズダウンのどちらかだ)。
本性では他にも、初めにされた肯定的なレビューは本物か虚偽かにかかわらず、その後のすべてのレビューに大きな影響を及ぼす(『アラルの研究では、肯定に誘導するレビューは評点全体を二五パーセント押し上げ、その状態はずっとつづいた』こんなん読んだらAmazonで自著を褒める人が多発しそうだが)など、レビューと評価の関係性についての興味深い指摘が続く。
ほか
第3章「好みは予想できるのか」では23.5歳付近に聴いた音楽をもっとも好む理由について「最高感度の臨界期」説や特定の学習期における「刷り込み」的効用などを紹介し、そうした「好み」の範疇を超えて新しい音楽を探しに行く方法など主に音楽的好みについて語る。
第4章「なぜこれが好きだとわかるのか」では、絵画などの芸術作品を対象にした神経科学的アプローチが試みられ、第5章「なぜ(そしてどのように)好みは変わるのか」では、好みが人の集団にもたらす力、社会的な団結を形成する力について文化人類学的な観点からの考察が加えられる。消費は目につきやすく、同じものを好きな人同士はつながりやすい反面、人と異なるところ、差異を出したいとも望む矛盾する行動が趣味を形づくっていく。『最適弁別姓と呼ばれる理論では、人はつかず離れずの気持ちで集団とつながっている』『趣味は人とは違っていたいと強く思うときに変わり、また人と同じになろうとするときにも変わる。集団は趣味をほかの集団に「伝播」させるが、趣味そのものが集団を形成させもする。』などなど。
最後、第6章「猫と土とビール」では、「普遍的によいビール、あるいはよい猫というものがありえるだろうか」という究極的な問いかけがなされ、「おわりに」に雪崩込んでいく。
おわりに
最後まで読んでわかるのは「好みって難しすぎ」という最初からわかっていたことではある。本書を読んでもその難しさの一端が分かっただけで、とてもその全貌が把握できたとは言い難い。ただひたすらに、好みは強く社会的影響を受け、直前に自分がどのような状態にあったかに関係しており、今日好きなものを明日好きでいられる可能性は低く、我々がいかになんとなく目の前にあるものを好んだり嫌ったりしているかが明らかになっていくからだ。
とはいえ、好みの形成、変遷過程についてその一欠片であっても知ることは、自分自身を知ることであるのと同時に、袋小路に入りがちな好みをいかにして拡張していくかへの発想にも繋がっていく。多かれ少なかれ目の前の評価物にたいしてできる限り主観を排した客観的な評価をしなければならない場面は誰にでもあるだろうが、そういう時に自分の主観的な好みがいったいどのように形成されているのかを知っておくことは、真に客観的な評価など到底不可能だったとしても──というより”だからこそ”、大いに役に立つだろう。実りの多い一冊であった。