近くて遠い国ロシア。プーチンという独裁者によって支配されるこの国は、国際社会において特異な存在感を示してきた。だが、この国で起きていることを知るのは意外に難しい。特にマスメディアに関することになると、なおさらだ。本書はそんな状況下にあるロシアのテレビ局TNTでプロデューサーを勤めたロシア系イギリス人が、ドキュメンタリー番組制作のために取材した市井の人々を通して、発展する経済、行政の汚職、クレムリンのプロパガンダに翻弄されるロシア人の姿を記した傑作だ。
著者が働いていたTNTは娯楽番組に特化した放送局だ。ピンク、ブルー、ゴールドという明るい色で塗られた局のロゴに「私たちの愛を感じて」がキャッチコピーのテレビ局。
これこそが必死で幸せそうにふるまう新生ロシアそのものであり、ロシアのTNT放送局のイメージだ。若々しくて元気がよく、一見華やかな国。テレビ局は躁常態の黄金とピンクの光線を、人々の暗く沈んだアパートに送っている。
モスクワ中から頭脳明晰な人々が集まり、反体制的な雰囲気に浸っている職場だ。しかし、ここで、本当の政治はできない。ニュースはいっさい放送しないからだ。モスクワからは「完全に沈黙する代わりに、完全な自由」を与えられているのである。そして、ほとんどの社員がこの取引に満足している。著者は自虐的に、僕はショウウインドウに飾る西側の人間であり、見せかけの西側社会を作る手伝いをしていると冒頭で語る。
しかし、著者はドキュメンタリー番組を制作していく過程でモスクワの付託という検閲に挑戦していく。例えば、ヤーナ・ヤコブレバの例もそのひとつだ。
ヤーナは10代からジエチルエーテルをフランスから輸入する会社を経営している新興富裕層の女性だ。著者は自立して生きる強い女性という、局が欲する新たな女性像を描くためにヤーナを取材する。しかし、取材の最中に彼女が麻薬密輸の容疑で逮捕されてしまう。ヤーナにとっても晴天の霹靂。なぜ自分が逮捕されたのか全く判らない。麻薬取締局(FDCS)に連行された彼女に知らされたのは、ジエチルエーテルが非合法な麻薬物質だとするFDCSの主張だ。今まで全く合法だったものが、突如として非合法薬品だとして責められる。「法廷が解決してくれる」そう信じたヤーナだったが、裁判所は検察の意見のみを採用し、彼女に仮釈放の許可すら与えない。
刑務所に収監されてからも彼女は身の潔白を証明するために戦い続ける。当初、事件はロシアでよくある会社の乗っ取りかと思われた。ロシアでは脱税やそのほかの微罪で、経営者を逮捕し、その間に政府の高官や警察署長などが会社を乗っ取ってしまう事例が頻発していた。しかし、ヤーナが調査した結果、この事件の裏には、大統領の旧友でFDCSのトップのチェルケソフとFSB長官のパトルシェフとの間の権限争いがあると判明する。彼女はメディアを利用した戦術に基づき自由を手にする戦いを始める。
果たしてTNTはこのような政治がらみの番組を放送させるだろうか。TNTは新しいヒーロー、ヒロインを求めていたが、最も市民を苦しめている「行政の汚職」と戦う人物は政治問題としてタッチできない。これはまさに「パラドックス」だ。ヤーナの戦いの結末は本書に譲るが、彼女たちの戦術は一面では功を奏したが、一面ではクレムリンに利用された。メディアを幾重にも渡り縛りつけ、コントロールするプーチンの手腕が見て取れる。
他にも興味深い人物が次々に現れてはクレムリンに翻弄される。プーチンが政権を掌握し、FSBがマフィアの家業に参入してきたことで、多くのマフィアが窮地に立たされる。彼らは財産を守るために企業家や政治家に転進していく。そんな中で極東の街でマフィアのボスをしていたヴィタリは映画監督として成功する。映画の題材はもちろん「マフィア」だ。
本物のマフィアたちが演じ、本物の血と拳銃で描かれたリアルなマフィア映画。映画のヒットにより、瞬く間に名士へと躍り出たヴィタリであったが、文化省とロシア最大のテレビ局オスタンキノが突如として、マフィア映画に否定的な見解を述べ始めると、窮地に陥る。突如として逮捕状が出され、逃亡者になってしまう。
クレムリンとオスタンキノが新たに望む映画は政治喜劇。市民のウサ晴らしにはなるが、実際の人物や団体に矛先が向かない程度のブラックユーモアのあるコメディー作品だ。ヴィタリは小説家に転進しクレムリンの意向に沿った、政治を扱ったコメディー小説を書き上げて、作家として成功する。毎年、彼の新刊が書店に並ぶ。
新生ロシアでは極端な躁と鬱が常に混在している。急速な発展で、たがが外れた新興富裕層の乱痴気騒ぎ、その一方で発展から取り残された人々は行政の腐敗に苦しんでいる。だが、彼らの批判がクレムリンに向くことはない。オスタンキノなどのメディアが四六時中、ロシアにある問題の多くが西側世界からの干渉によって発生しているのだという陰謀論を繰り返しているからだ。発展から取り残され、苦しむ若者たちの多くが愛国主義へと流れていく。
その象徴がロシア版「ヘルズ・エンジェル」といえるバイカー・ギャングの「ナチヌイエ・ボルキ」だ。アメリカ発祥のバイカー・ギャングのロシア進出を阻んだことにより、メディアによって、新たなヒーローに祭り上げられた英雄たち。クレムリンはこうした無法者たちもプロパガンダとして利用し、政権側に取り込んでいく。
本書の山場となるのはルスラナというスーパーモデルの自殺事件だ。調査を続けた著者の前に現れたのが「ザ・ローズ・オブ・ザ・ワールド」と呼ばれるセクト。自己啓発系カルトの裏側にも見え隠れするクレムリンの影。このような状況に著者は次第に追い詰められる。
僕たちは反体制派なんだろうか?で、僕たちはロシアを自由にする手助けをしているのだろうか?それとも僕たちは、実際には大統領の存在を揺ぎないものにするためのクレムリンのプロジェクトなのか。(中略)僕たちは皆、政治工学者たちによる巨大なリアリティー・ショーの、ほんのちょっとした端役なわけだ。
ソビエト時代からロシア人の人格は常に細かな断片に引き裂かれてきた。職場や学校では共産党を支持し、家に帰れば、BBCの放送をこっそりと聴き、共産党を罵倒する。相手の立場によって極端な顔をいくつも使い分け、そうする内に本当の自分の意見すらわからなくなる。そんなロシア人の分断された人格は今も変わっていない。特にメディアで働く人々はそれが顕著だ。
そして、イギリス育ちの著者はロシア社会によって分断される自身の人格にうまく適応することができずに消耗していく。そんな中、過去の仕事が評価され、プーチンのプロパガンダの牙城といってよい、オスタンキノからスカウトされる。大きなキャリアアップだ。著者は迷いながらある決断を下すことになる。
度々、指摘されるプーチンのメディア支配、本書はプロパガンダ機関と化したロシアのメディアで働く人々の考えや思いを知りことができる貴重な一冊である。特にメディア関係者やロシアとビジネスをしている人たちにとって必読の1冊であろう。