今、映画を大ヒットさせられるかどうかは、公開前の段階で8割方勝負がついてしまう。数ヶ月前から情報を小出しにすることで期待値を高めていき、公開直後から期待に違わぬことを示すポジティブな口コミが広がっていけば、ヒットがヒットを生み出す自走状態に入っていける。
一方で、インド映画『バーフバリ 王の凱旋』。日本での上映前に今の状況を予想することが出来た人は少なかったことだろう。むろんコアなファンは早くから期待に胸を膨らませていただろうが、ファンの規模から考えると圏域の壁を超えられるほどではなかったはずだ。実際に興行収入も、公開後3週目までは下降傾向にあったという。
僕が初めて『バーフバリ』を見たのは今年の1月のこと。上映最終とされていた週の観覧であった。何とか駆け込みで間に合ったなと思っていたのも束の間、その辺りからバーフバリを体験した観客達の熱狂が拡大し、予想もしなかったロングランになっていく。
その後、2月の爆音映画祭での上映、3月の度重なる絶叫上映、4月のS・S・ラージャマウリ監督来日と仕掛けめいたものが相次いだが、予め計算されていたかのような雰囲気は微塵もなく、いつも何とか間に合わせたという慌ただしさと手作り感があった。純粋にファンの熱量だけで広がっていったというオーガニックな成長曲線にこそ、バーフバリの奇跡を感じるのである。
この熱狂の渦へさらに燃料を投下すべく登場したのが、『ユリイカ2018年6月号』だ。これがもうグッジョブとしか言いようのない、濃厚な特集になっている。監督インタビュー、ファン目線での対談、絶叫上映の舞台裏などは想定の範囲内なのだが、衣装・生活様式の視点、インド音楽や政治的な観点など、あらゆるディープな角度からバーフバリを徹底分析しているのだ。
それぞれの論考もさることながら、注目したいのは、多くの論者が『バーフバリ』と他のコンテンツとの間に共通点を見出しているということである。
アジア映画研究者・夏目深雪氏は、カズオ・イシグロ作品との類似性を指摘する。
それは一言で言えば現代において、汚れていない英雄など、また英雄の勝利など存在しないという諦念であろう。『バーフバリ』もイシグロ作品も、映画と小説というメディアや手法の違いはあるものの、負の運命を背負った主人公の内面世界を追うという共通点を持つ。『日の名残り』の執事は、仕えた主人がナチス政権に加担したという過去を持ち、『わたしを離さないで』は臓器移植のために作られたクローンたちが主人公だ。(中略)
2つはほぼ主人公たちに落ち度はなく、見通しの悪い一人称によって、読者はその負の運命を少しずつ体感していくこととなる。
一方で、日本の伝統芸能・歌舞伎になぞらえるのが、配給元(株)ツイン代表取締役・加畑圭造氏だ。
『バーフバリ』には日本の歌舞伎に通じるものがあると思います。歌舞伎の特徴的な動作に”見得を切る”というのがありますが、プラバースも見栄を切っていますね。それから観客が掛け声を掛けるというのもそう。
意外な角度から『水戸黄門』との関係性を指摘するのが、歴史学者の藤村シシン氏。
われわれにとっての『水戸黄門』のような感じかもしれませんね。印籠は出すけれど私利私欲のためではなく、悪者を成敗するために出していて、それにおれたちは跪く。跪くならよりよい主人に跪きたい。
社会学者の金田淳子氏が挙げるのは、あの人気漫画。
そういう意味では(バラーラデーヴァは)『ジョジョの奇妙な冒険』のディオさまに似ているなと。ジョジョも系譜の話で、正義の系譜であるジョジョの一族に対して、ディオという親殺しもした悪のヒーローが最後まで極悪を貫く。そのガッツに惹かれるんです。
西洋中世史を専門にする岡田尚文氏は、デジタルVFXという観点から『ロード・オブ・ザ・リング』を挙げる。
映画世界を主にデジタルVFXによって仮構するうちにそうなったと思われるのだが、『バーフバリ』二部作は、明らかに多くのイメージを『ロード・オブ・ザ・リング』から借り受けている。そして重要なことには、上記の例がそうであるように、両者はしばしば「王」という主題をめぐって、似たような、あるいは似て非なる相貌を露わにするのである。
映画研究者の河野真理江氏が『ドラゴンクエスト』との類似性を指摘するのも興味深い。
バーフバリは『ドラゴンクエスト』のロトシリーズにおける勇者とよく似たキャラクターであるということだ。つまり、陰謀によって殺された伝説の王の子である赤ん坊が密かに落ち延び、とある村で自らの出生を知らずに他人の手によって育てられる、とこのように書いてみると、この主人公は『ドラクエ』と設定をほぼ共有しているように見える。(中略)
バーフバリと『ドラクエ』勇者との最大の共通点は、伝説を継ぐものとして覚醒する過程と、悪によって蝕まれた世界を正義の力で救う使命にある。
この他にもアメリカのファンタジードラマ『ゲームオブスローンズ』、アフリカを舞台にした映画『ブラック・パンサー』、昨年公開された映画『HIGH & LOW the movie3』、元祖インド映画の『ムトゥ 踊るマハラジャ』など、さまざまなコンテンツとの共通点が見出される。まさにインドの寓話「群盲象を評す」を彷彿とさせる状況だ。
しかし荒唐無稽さをウリにする『バーフバリ』が、なぜこれほどまでに世界のさまざまなコンテンツに通じるところがあるのか? これを鮮やかに読み解くのが、比較神話学を専門にする沖田瑞穂氏の「二人の「ファム・ファタル」」という論考だ。
『バーフバリ』がインドの叙事詩『マハーバーラタ』をモチーフにしていることは既に知られているところだが、彼女はレヴィ=ストロースによる神話研究の方法論を踏襲し、「同一構造の反復と変形」に着目する。この分析の対象になったのが、『バーフバリ』に登場するデーヴァセーナと『マハーバーラタ』に登場するデーヴァヤーニーとの対比だ。ともに自己主張の強さにより親族に不幸を呼び寄せた「ファム・ファタル」である一方で、その行動や周囲への影響は対照的なのだ。
世界の神話には、「神話の源泉」と呼べるような原形があり、その源泉から水が汲み出され、時代を問わず様々な個別の神話が生み出されるものである。しかし『バーフバリ』と『マハーバーラタ』に見られるほどの精緻な反復と変形の構造は、無意識下における創造であり、そこからは人類の共通の神話思考が読み取れるのだという。
ストップモーションを使った絵作り、血湧き肉躍る楽曲、そしてキャラ立ち。バーフバリの魅力は様々だが、ストーリーの魅力を切り口に叙事詩『マハーバーラタ』へ接続する。これが一番長く、深く楽しめそうであることを確信した。
いよいよ6月1日から完全版が公開され、ますます盛り上がりを見せるであろう『バーフバリ』。本作を語るあたっては既に、単に面白かったというだけではすまされない第二フェーズへ入っている。ここで最も大切なのは、訳知り顔で語れる大量のウンチク、そしてなぜ面白いのかという左脳的な分析だ。本書は、そのニーズを十分に満たしてくれる一冊と言えるだろう。
王を称えよ! 映画を見ながら右脳で称えよ! そして『ユリイカ』を読みながら左脳で称えよ!