ZOZOTOWNを運営するスタートトゥデイの前澤友作社長が、昨年5月に行われたサザビーズ・ニューヨークのオークションで、ジャン=ミッシェル・バスキアの『Untitled』を約123億円で落札して話題になった。これはバスキアのオークション史上最高額である。
それ以前にも、一昨年5月にバスキアの作品を62億円で落札したら、世界のトップ100コレクターにも選ばれているレオナルド・ディカプリオの自宅に招待された逸話など、前澤氏は一気にコンテンポラリーアート界の最前線に躍り出た感がある。
仮に1号10万円の画家が100号の絵を描いても1千万円にしかならないことを考えると、バスキアの価格は桁外れである。
今、こうしたコンテンポラリーアートの世界で何が起こっているのだろうか。この仕組みを解明し、「アートワールド」の大海を泳ぎ切るために何が必要なのか、それを京都造形芸術大学の「現代アート論」で教えている著者の講義を一冊にまとめたのが本書である。
本書はアートビジネスに関する本として際立っている。アートをこれだけ現代社会や世界経済と整合的に紐付けして論じた本というのは、日本人の手によるものとしては、かつて見たことがない。本書の中に、「資本主義芸術」という言葉が出てくるのだが、アートの本を読んでいて、初めてそういう言葉に行き当たった。
最近、様々なアート関係者に会ったり、アートフェアに行ったり、アートの本を読んだりする機会が多いのだが、いつも「アート」と「アートビジネス」が混同して議論され、日本の公的部門やビジネスマンがアートに対して理解がないといった愚痴を聞かされて終わってしまうのだが、本書だけは両者の違いを明確に区別して論じてくれている。
著者は読者に対して、「アートの問題を、鑑賞したり理解したりできるかどうか、天才的な才能やセンスを持っているかどうかだと思っていないだろうか?」と問いかける。何か神がかった才能が天から降ってきて、その啓示を受けた特別な人だけにしかアートを作ったり、語ったりする資格がなく、それ以外の人は頭を垂れて黙って説教を聞くしかないといったような。
著者はこうした考え方を否定する。そして、なぜ特定のアーティストの作品だけが天文学的な値段で売買されるのかという問いについて、「なぜ」ではなく、「どうすれば」を能動的かつ戦略的に考える時代になっているのだと言う。
つまり、我々は今、グローバルに広がる資本主義社会の中の、キャピタルマーケットならぬアートマーケットというフィールドでゲームを戦っているのであり、そのゲームのルールを知らない限り、決して勝者になることはできないというのである。
そこにはこの世界独自のルールや価値基準が存在し、アーティストもそれを無視しては生きていけないし、それを理解しなければ、もはやトップアーティストにはなれない時代なのである。
この点について、著者は次のように書いている。
現代のアーティストが住む「アートワールド」とは、アートをめぐる価値のゲーム場であると捉えることが必要だ。アートは不思議な価値形態であり、単に批判的な文化価値や審美価値だけでなく、不動産や株のような経済的・投機的な価値の対象にも成長し、動いていることを認めなくてはならない。おまけに、そのゲームの場は、グローバルなのだ。ローカルな日本画だから、学生だから、アマチュアだから、そのルールから見逃される、なんてことはない。誰もがグローバルな資本主義の吹きっさらしの荒地に置かれているのである。
つまり、アートワールドで生きていくためには、アートの「価値」をめぐる生態系が、どのように生み出されていくのか、「価値」あるものをどうやって生み出していけばよいのかを知らなければならない。速く走れるからと言ってオリンピックに出場できるわけではないし、喧嘩が強いからボクシングのチャンピオンになれるわけでもないということである。
それでは、アートの世界は一体どこでどのように大きく変質したのだろうか。
その最初の契機は、第二次世界大戦を境に、アートの中心地がパリからニューヨークに移ってきて、マルセル・デュシャンとアンディ・ウォーホールによってゲームのルールが書き換えられたことである。
これを境に、アートは絵画中心の「視覚プレイ」の時代から、「頭脳プレイ」の時代にシフトした。そして、デュシャン以降の約100年をかけて、ギャラリスト、コレクター、キュレーターなどで構成された「アートワールド」という新たな価値創造のゲームが作り上げられてきたのである。
このニューヨークモデルは、アーティストだけでなく、キュレーターやプロデューサーなどのプレーヤーが、総がかりで価値創造に取り組んでいるというところがポイントである。もはやアートは一人の天才アーティスによって生み出されるものではなく、ハリウッド映画のように、いかに「コト」を引き起こし「価値」を生成できるかというビジネスになっているのである。
著者は、こうした変化について、以下の4つの特徴を挙げている。
■ 不可視な「コンセプト」が支配する世界に移行した。
■ 表現主体である「わたし」が中心ではなくなり、「他者」が主導する世界に移行した。
■ アート作品が単にアーティストの表出物ではなく、時代や社会の表出物になった。もはやアーティストは、「完全なる美」を創出するものでもなければ、生き神としての天才でもなくなった。
■ デュシャンの言う「芸術係数」のように、鑑賞者との相互関係で作品の価値が変わるという視点が生まれた。
デュシャンは、それ以前の画家たちを「網膜系」の画家だとして、「画家のように愚か、とは19世紀後半のフランスで用いられた言い回しだが、本当にその通りだ。目で見たものを描くだけの画家は愚かしい」と批評している。
そして、彼自身は、1910年代に油彩画を描くのをやめてしまったが、なぜ絵をやめたのかと問うトムキンズの質問に対して、次のように答えている。
わたしは非・美術家になったのですよ。反・美術家とは違う…。反・美術家は無神論者に似ている―かたくなに否定するわけだね。わたしは美術に価値があるとは思わない。今の世の中で大切なのは科学ですよ。ロケットが月まで行くようになったのだから、当然人だって月に行くだろう。家にいて、月に行く夢を見ている時代ではない。美術は不要になった夢みたいなものさ。
そして、アートワールドの仕組みを根底から変えたのが、1990年代以降の経済のグローバリゼーションに連動し、世界の主要都市で連鎖的に広がった国際アートフェアである。これがコンテンポラリーアートをビジネスの領域に変化させた。
私自身、本年3月末に初めてアートバーゼル香港に参加してみて、日本におけるアートフェアとのスケールの違いに驚かされた。アートバーゼルのアジア版だから、アジアの作家が多いのかなという程度に思っていたのだが、例えばアートフェア東京と比べても、まず会場の大きさ自体が、東京国際フォーラムと香港の巨大なConvention & Exhibition Centerとでは、とても比較にならなかった。また、会場のサイズだけでなく、個々のブースの大きさも全く違っていた。
関係者に聞いた話では、売上も本年2月のアートフェア東京が全体で20億円位だったのに対して、アートバーゼル香港では、ひとつの画廊で20億円位売り上げる所があるそうだ。作品単価も東京は高くて数百万円のところが、香港では百万ドルを超える作品が数多く出品されていた。アートバーゼルのスポンサー自体が、富裕層相手のプライベートバンキングで世界トップクラスのスイスのUBSであるから、それも当然なのかなという感じだった。
もうひとつ気が付いたのは、いわゆる工芸的なものが一切なく、出品がコンテンポラリーアートに絞られていたということである。個人的には、アートフェア東京ではコンテンポラリーアートから骨董品までバリエーションがあって楽しかったのだが、香港では9割方がコンテンポラリーで、残りはモダンアートという感じだった。その違いを関係者に尋ねたところ、実は東京(初期は横浜でやっていた)も最初はコンテンポラリーだけでやっていたのだが、それだけだとギャラリーが集め切れないので、結果的に骨董も含む何でもありの催事なったそうだ。
残念ながら、日本経済がバブル崩壊以降、失われた25年とか30年とか言っているうちに、日本のギャラリーも、一部を除いてグローバルな動きから完全に取り残されてしまった。著者が言うには、特にリーマンショック以降、時代のカーブを曲がるために、アクセルを踏んで曲がったのか、ブレーキを踏んで曲がったのか、それぐらいの差がついてしまったのである。
今やグローバルなアートマーケットは、大きな再編を経て、更に強い「資本主義芸術」の意味出しに取り掛かっており、こうした世界の動きに日本はついて行けているのかが問われている。
この点について著者は言う。
アートワールドも、資本主義のゲームの激しい流動性にさらされている。2018年にウィレム・デ・クーニングが描いた『インターチェンジ』が史上最高値の3憶ドルで売買されたことに対して、「実態から遊離した価値だよ」と言い捨てることは、余りにも安直である。美術教師はよく、「いい作品を作り続けていれば、いつかは報われるよ」と、当たり前すぎて、なぐさめにもならないことを未だに言う。そのような、変化し続けるアートの価値のルールに付いていけない教師は、未来のアーティストにとって害でしかない。
極論すれば、今までならアートヒストリー程度を勉強していれば済んだスキルでは到底ダメで、ピーター・ドラッカー並みのビジネス・ストラテジーやブランディングなど、包括的な戦略スキルなしには、やっていけなくなったことを意味している。コンテンポラリーアートに、芸術経済学という明確な領域が発生したのである。
現在、アートワールドでは、ベニス・ビエンナーレのような「国際展」と「アートフェア」を両輪にして価値生成が動いている。この動きに対して、傍観者ではなく、いかにプレーヤーとして関わるかが重要なのである。
現代社会において、アーティストであるということは、こうした時代の変化を理解した確信犯でなければならない。その渦中にダイブするにせよ、離反するにせよ、ゲールのルールは最低限知っていなければならないのである。
そうした中でも、明るいニュースを言えば、今回のアートバーゼル香港にはZOZOTOWNの前澤社長だけでなく、日本の若手の企業家がかなり参加していた。こうした現象について、あるアート関係者は、「前澤効果」と言っていたが、前澤社長のバスキア以来、今、30-40歳代中心の若手の企業家の間で、アート収集に火がついているそうである。一人の経営者が動くだけで、こんなにも雰囲気が一変するのかという感じである。
私としては、アートは右脳、アートビジネスは左脳であって、バランスシートで言えば、アートは左側、アートビジネスは右側だと思っている。そして、ビジネスの世界では当たり前のことだが、バランスシートの両側をうまくコントロール出来なければ、サステイナブルにはならないのである。
只、このように言うと、もはやアートをやるのであれば、ビジネスとして冷徹にやらなければいけないのだという、アートの魂を失った資本主義の権化のように聞こえるかも知れないが、勿論、そういうことを言っているのではない。
ただ単に視覚的に美しいものを鑑賞したり蒐集したりするだけなら、個人の趣味の世界に留まっていれば良いのであって、もしアートをビジネスにするのであれば、アートを取り巻く世界経済の動きや、更にそれをも包含する時代の大きな物語を理解した上でそこに参加しなければいけないということを言っているのである。
この点について、最後に著者は根本的な問題を投げかけている。つまり、アートに対する「審美眼」とは何だろうかという問い掛けである。「審美眼」という言葉は、しばしば骨董の目利きについて言われる言葉だが、骨董を見る「審美眼」とコンテンポラリーアートを見る「目」は同じなのであろうか。
著者自身は、コンセプチュアルアート以降のアートワールドが、「真善美」などという美学とは全く異なったポストモダンな頭脳プレイにシフトしたことで、小林秀雄や青山二郎的な意味での「目」が今でも有効なのかどうかは即断しがたいと言っている。そして、アートワールドの未来は、アーティストだけでなく、コンテンポラリーアートを見抜く、クリティカルな「目」の責任にかかっているのだと言う。
人間が人間であり続ける限り、美学としてのアートがなくなることはないだろう。しかし、もはやアーティストが「視覚プレイ」だけで生きていけないことは明らかである。滅びてしまわないことと、たくましく生き抜いていけることは別である。これからは、ビジネスとしてアートに関わる全ての参加者は、アートマーケットのルールを知った上で、「頭脳プレイ」を戦っていかなければならない時代になったのである。