本書は、東京大学で西洋経済史の教鞭をとり、東大EMP(エグゼクティブ・マネジメント・プログラム)の講師も務める小野塚知二教授のこれまでの研究活動の集大成であり、学生の教科書としても、研究者の参考書としても、社会人の教養書としても、様々な切り口で読み、使うことができる、経済史の決定版である。
本書において小野塚氏が最初に立てた仮説が、「人とは際限のない欲望を備えた動物であるから、その欲望を充足し続ける―この欲望に際限はないので、充足してもまた新たな欲望が湧きおこり、それを充足する―ことが、経済成長の原動力だった」というものである。
その上で、前近代、近世、現代の各時代において、際限のない欲望がどのようにして人類の成長の原動力たり得たのかを、きめ細かく考察している。
今回この書評で小野塚氏の新刊を取り上げたのは、自分自身が東大EMPで講義を受け、先日の「資本主義の教養学」公開講演会においてもスピーカーを依頼するなど、何度も話を聞いており、その都度、小野塚氏が提示する「経済はなぜ成長するのか?」という根本的な問題について考えさせられてきたからである。
そうした小野塚氏のこれまでの論考や講演を集大成したものが本書なのである。その上で幾つかコメントすると、小野塚氏の議論の前提になっている「人間の限りない欲望」というのは、私の感覚とは必ずしも合致するものではない。
小野塚氏は、一人の人間が食べられるバナナの量には限りがあるが、貯め込めるお金の量には際限がないというたとえ話をするが、実はこれは金融に長く携わってきた私の実感と少し違うのである。
お金というのも、沢山貯め込むと、お腹(気持ち)が一杯になるというのが、金融機関で働いていた私の印象である(実際にはそれほどのお金持ちになったことがないので、あくまで「実感」ではなく「印象」に過ぎないが。)
他方、小野塚氏の言う、結論としての「弱い規範」の必要性という所は、驚くほど私の実感に近いものがある。強い規範である共産主義や全体主義などの観念論や理想論が、ディストピア(ユートピアの正反対の社会)を生み出してきた人類の長い歴史を振り返ると、「強い規範」の否定というのは、極めて重要なポイントだと思う。
人間というのは、「こうあるべき」という観念的・精神的なもの以外に、身体性や共感性を持って生まれてきた動物であり、こうした人間の身体性(手触り感)から乖離することのない範囲での弱い規範性に止まるべきだと思っている。生身の「人間」から乖離した観念論は、必ず人間性の否定につながるものであり、そうした意味で、人文科学的な意味での「真理」の発見には、私自身は極めて懐疑的である。
小野塚氏も、この点について、以下のように語っている。
わたしたちにとって、一方では、そうなってほしくない次代を、ディストピアや反理想として明確に描き、それを避ける方向に試行錯誤的に進化することが大切です・・・一挙的な伝統主義・設計主義・合理主義を振りかざして次代を構想するユートピアを唱えるなら、それはほぼ間違いなくディストピア(dystopia)しかもたらさないということが、次代について何らの構想ももてないままに、いまが現代の終焉に立ち至っている理由なのだと本書は考えます。
本書の全体を通して見ると、小野塚氏は人間を非常に厳しい目で見ていると思う。私は、人間を含めて動物というものは、そもそも「生きる」ことを肯定的に捉えるように創られていると考えており、人間社会が目指すその先には、「ディストピアを避ける」というよりは、もう少しポジティブな姿があって良いのではないかと思っている。
そして、こうした違いが、資本主義における「資本」とは何かという理解にも表れている。小野塚氏は、「資本」というのは「人間の限りない欲望」の外的なものへの仮託だとしている。つまり、「人が、際限のない欲望の主体であると自己を認識するよりも、むしろ、資本という外力が自分に憑依しているという迂回的な認識の方を選んだ」ということである。
これに対して、私はこの原動力を「人間の限りない成長意欲」の金銭的(量的)な表出だと考えている。今、シリーズものとして放送されているNHK番組『欲望の資本主義』『欲望の経済史』『欲望の民主主義』が話題になっているように、人間の本質について、「欲望」というのはひとつのキーワードである。
映画『ウォール街』で、マイケル・ダグラス扮する主人公の金融家ゴードン・ゲッコーが、”Greed is good(強欲は善だ)”と言い切ったように、「欲望」が人を動かす原動力であるのは間違いない。
しかしながら、これも実業界に長く身を置いた経験から言えば、「欲望」だけでは人間は本来の力を発揮できないように思う。今回の平昌オリンピックの選手たちの活躍を見ていても、何のためにあれほど頑張れるのかを考えると、人間にはどうしても前に進まなければならないような生来的なメカニズムがビルトインされているように思う。
国のために頑張っているんだと言う人もいるかも知れないが、そんなことを本気で信じているのはテレビの実況アナウンサーくらいであって、活躍している選手は皆、自分のために頑張っているように見えるし、それはそれで人間が持つエネルギーの正しい使い方であり、素晴らしいことだと思う。
これは現時点では仮説に過ぎないが、人間が前へ前へと進もうとするのは、人間という動物の進化論的なメカニズムではなく、人間が抽象的な思考を可能にする「言葉」を持ち、それに伴い「時間」という概念を持つに至った所から来ているのだと考えている。
これは、「経済はなぜ成長するのか?」という資本主義の根本問題にも通じる話で、この常に前へ前へと進もうとする姿勢は、言葉を持った人間の宿命であり、なおかつ生命エネルギーの正しい発露なのだと思っている。
先日の小野塚氏に依頼した講演会の後に、火星に移住しようとしているイーロン・マスクに代表されるような、資本主義社会の頂点に立つ勝者たちの、テクノロジーが全て解決するというアメリカ西海岸的な楽観主義についてどのように考えるかを質問してみた。
その際の小野塚氏の回答は、「それで彼らは何処に行こうとしているのか? 私にはそれが分からないし、彼らにそれを問い質してみたい」ということであった。
小野塚氏の言わんとしていることも理解できるのだが、ファルコン・ヘビーにテスラ・ロードスターとスターマンを乗せてデヴィット・ボウイの音楽を流して火星に送ってしまうというような、”It’s kind of silly and fun(バカバカしいけど面白い)”とイーロン・マスクが言ったその言葉が全てを物語っているように思う。
テスラは結局、火星の公転軌道上には到着するものの、火星本体には着陸せず、再び地球の公転軌道上に戻ってくるのが2091年だそうだが、このように、バカバカしくても未来を感じさせるワクワクするようなことをしたいのが人間であって、そのように前に進もうという意欲やエネルギーが人間を人間たらしめているのだと思う。
そして、今、我々に求められているのは、そのエネルギーを正しい方法で解き放つためのお膳立て、つまり「弱い規範」に立脚した社会システムの構築なのだと思う。
小野塚氏はこの点について、「大きく強い規範の再建を一挙に目指すのではなく、小さく弱い規範を、美的価値や身体的礼にも注意しながら、一つずつ再建する中で、進化論的(evolutional)に次代を構想しようということです・・・季節性のある在地食材を用いた新しい食の快楽を自分の生きている具体的な場所で創造するといった、多種性・異種性を確保する中で、小さな「格好良さ」を追求するところに、未来を切り拓く多様な可能性が潜んでいるはずです」と言っている。
ユートピアを目指せば必ずディストピアに至る。ヨーロッパの諺に、” The road to hell is paved with good intentions(地獄への道は善意で敷き詰められている)”とあるが、一挙に大きく強い規範を求めて破綻してしまうのではなく、足元をしっかりと見つめて地道に善行を積む、そうした生き方の中にしか回答は見えてこないのだという点で、結局、私の結論も小野塚氏と同じところに回帰してくるのである。