「私はもう死んでいる」(コタール症候群)、「この足は断じて自分の足ではない」(身体完全同一性障害)、「目の前にもうひとりの自分が立っていた」(ドッペルゲンガー)──わたしたちが「自己」と呼んでいるものに歪みを生じさせるような、驚くべき症例と経験の数々。本書は、それらの症例と経験を手がかりとしながら、「自己とは何か」という大問題に迫る挑戦的な一書である。
挑戦的なだけではない。本書は痺れるくらいにエキサイティングでもある。本書をそれほどエキサイティングにしているのは、以下のふたつの要素だ。
まずひとつは、痛ましくも興味深い症例と経験のストーリー。本書は、アルツハイマー病、統合失調症、自閉症といったよく耳にする疾患だけでなく、コタール症候群、離人症性障害、ドッペルゲンガーといったあまり知られていない疾患や経験もとりあげている。そして、それらの症例や経験をドラマチックに紹介する筋立てがじつによくできているのだ。
なかでもその展開にゾクゾクさせられるのが、身体完全同一性障害(BIID)を扱った第3章だろう。BIIDの患者は、身体の一部(とくに手か足)がどうしても自分のものとは感じられず、それを切断したいと強く望む。本書に登場するデヴィッドも、片方の足に関してそうした感覚と願望を抱いており、何度か自ら切断を試みた(!)ほどだった。
彼がたどったその後の展開はさらに衝撃的だ。デヴィッドは、自らもBIID患者だった仲介者とコンタクトをとり、非合法な形で切断手術を請け負う外国の医師を紹介してもらう。そして、仲介者や著者とともに国外へ渡り、ほかの医師や看護師を巧みに欺きながら、切断手術へと漕ぎ着けるのである。結果、(こう表現して正しければ)手術は成功し、デヴィッドの願いは達せられる。術後の彼を描いた印象的な文章を引用しておこう。
初めて会ったときからずっと、デヴィッドは張りつめた表情をしていたが、それがすっかり消えている。心から安堵し、満たされているのが私にもわかった。
数か月後、デヴィッドにメールで様子をたずねた。切断手術に後悔は微塵もない。人生で初めて、自分が完全にまとまった存在になれたとデヴィッドは返事をくれた。
以上のような驚きに満ちたストーリーが、本書をきわめてエキサイティングにしている第一の要素である。そして第二の要素は、「自己とは何か」に関する理論的考察だ。
自己にとってことさら重要だと考えられる特性がいくつかある。これは自分の身体だという感覚(身体所有感覚)や、この行動や思考は自分に由来するという感じ(自己主体感)、あるいは自分の核となるストーリーの集合(ナラティブ)などがそれである。
だが特定の障害や経験が生じると、そうした特性も無傷ではいられない。実際、先に見たBIIDはまさに身体所有感覚が歪められたケースだといえるだろう。ならば、そうした障害や経験がどうして生じるのかを見ていくことによって、「何が自己の特性を構築するのか」という点も明らかになるのではないか。著者はそう考えて理論的考察を進めていく。
著者の考察においてとくに重要な役割を果たしているのが、「予測する脳」というアイデアである。単純化して述べれば、予測装置としての脳がうまく機能していないと、問題の障害や経験が発生し、自己の感覚がひどく歪められてしまう、と著者は考える。
根底にあるのが、最近支持を集めている「予測する脳」という考えかただ。自己主体感の生成も、脳の予測メカニズムが自己感覚構築に関わっているひとつの例だろう。…いま神経科学者は、離人症性障害、さらには自閉症のような複雑な障害もこの概念で理解できるのではないかと考えている。
以下で一例として、自己主体感(の阻害)について見てみよう。統合失調症患者のなかには、自らの行動や思考に対して、自分が行なったり考えたりしたことではないように感じてしまう人がいる。「[行動や思考が]自分の外から来たような気がしてならないんです」というわけだ。では、そうした自己主体感の阻害はいかにして説明できるだろうか。
そこで著者が引き合いに出すのが、アーウィン・フェインバーグの強調する「随伴発射」や、クリス・フリスの提唱する「コンパレーター・モデル」だ。たとえば腕を動かすとき、運動皮質は腕の筋肉に指令を伝えるだけでなく、その指令のコピー(随伴信号)を脳のほかの領域へ送る。受け取った領域は、今度はそのコピーをもとに、腕の運動がもたらす感覚を予測する。そして、その予測と、実際に生じた感覚(触覚、固有受容感覚、視覚など)とを比較し、その結果にもとづいて「自己」と「非自己」の区別をつける。つまり、「食いちがいがなければ、その行動を遂行したことになり、行動は自分のものという自己主体感が得られる。一致しないところがあれば、行動は別の誰かがやったことだと感じるのだ」。
著者はこうした見方を採用し、「統合失調症の奇妙な症状も、背後に随伴発射の機能不全がある」という考えを支持する。そして興味深いことに、そうした考えを用いると、「自分で自分をくすぐる」ことにまつわる謎も解消する。わたしたちはふつう、自分で自分をくすぐることができない。なぜなら、そうしようとすると、脳がその運動を予測し、その後に生じる触覚への反応(くすぐったさ)を抑制するからだ。だがじつは、統合失調症の一部の患者は自分で自分をくすぐることができる。もうおわかりだろう。それは、脳の予測メカニズムがうまく働かず、自他の行動の区別がつけられないから、とそういうわけだ。
著者は以上のようにして、「脳はどのように自己の特性を構築しているのか」を追っていく。といっても、著者の理論的考察はそこで尽きるわけではない。もし誰かがたとえば身体所有感覚をひどく歪められたとしても、それでその人が誰でもなくなってしまうわけではないだろう。ならば、自己を成り立たせる最小のもの(ミニマル・セルフ)とは何なのか。いやそもそも、そんなものは本当に存在するのか。ぜひ本書のエピローグまで読んで、著者の考察をたどってほしいと思う。
繰り返すと、本書はストーリーよし、理論よしの、非常にエキサイティングな本である。奇妙ともいえるストーリーで読者の関心を惹起しつつ、徐々に理論的考察を開陳していくその構成も見事としか言いようがない。読者によっては、本書を読んでいてV. S. ラマチャンドランやオリヴァー・サックスの著作を思い起こす人もいるかもしれない。もちろん、著者はラマチャンドランほど卓越した研究者ではないし、サックスほど多くの患者を診てきたわけではない(そもそも著者は研究者でも医師でもなくライターだ)。ただ、ラマチャンドランやサックスの著作を楽しんだ人であれば本書を存分に堪能できるだろうし、また何より、著者の書きっぷりは十分すぎるほど痛快だ。
読んでドキドキ、考えてワクワク。諸手を挙げておすすめできる1冊である。